実店舗閉店のお知らせ

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中神書林実店舗は2014年12月27日で閉店しました。27年間のご愛顧、ありがとうございました。

ネット販売、出張買取は継続しております。本などのご処分にお困りの方は、お気軽にお電話ください。今後ともよろしくお願いします。

電話番号は下記のように変更になりました。

042-505-4425

(更新後もこのページがTOPになるようにしてあります)
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# by nakagami2007 | 2016-12-31 14:07

残されたノート

店をやめてもう一年になる。去年の今頃は、閉店の準備で整理に追われていた。その都度取捨選択をしていないと、どのくらい経ったのかもわからないような物がいつまでもずっと残っている。もう何もいらないのじゃないかと思いながらいろいろな物を捨てたが、それでもまだ処分保留にしてしまったものがいくつかある。机の引き出しの中にある、血のついた一冊のノートもそうだ。

数年前の事だ。体調を崩して何度か入院をしていたKが顔を出し、突然余命宣告をされたと話しだした。まだ二十代の後半なのだ。その話を聞いてもとても信じられず、どう答えて良いのかもわからなかった。そして、この事はこの町の皆には「黙っていてほしい」と言う。Kは本屋で働いていたので、親しい知人も多かった。店に来たお客に「Kはどうしてる」と問われれても、どう答えていいのかわからない。結局、Kと同年代の仲間たちの中でBarをやっていて人望もあるSoだけには伝えて、後の事は決めてくれないかと丸投げにしてしまった。

入院生活でのカメラマンのTさんや新しい仲間たちとの出会いの事は以前に書いた。新しい治療をうけるたびにKは集中治療室に運び込まれて生死をさまよった。それでも、専門の病院を紹介された時にも「やれることはやるしかないんじゃないか」と言う事しかできなかった。そしてまた同じ悪夢を繰り返していたのだ。治療の金がかかるので、動ける期間があれば立川のパン屋でアルバイトをしていた。駅から僕の店までたった100メートルほどの距離なのに、何度も休み休み歩きながら、たくさんのパンを手土産に顔を出してくれるのだった。

そんな何でもない日常がある事が嬉しかったのだろう。飲めば後で苦しくなるのはわかっているのに、ワンカップを飲もうと言う。何もかも、忘れたい事ばかりなのに、何一つ忘れる事ができなかったのだろうと思う。Kがノートを置いていったのはその頃だ。バイトの休み時間には痛み止めの注射をする。その時の血がついたノートだ。「誰かに見られたらギョッとされるね」と笑った。そしてポツリと、「眠ってしまえば、もう朝はこないと毎晩思う」と言った。

結局、Kは苦しいばかりの治療をやめ退院をすることにした。その後、Soが調べた民間療法に何度か行ったりした。「今日は体調がいい」と笑いながら一杯飲んだりしているうちに、奇跡は起きた。会うたびに、体調が戻っているようだった。そして以前に暮らしていたという三鷹の斜めになったオンボロアパートの大家の好意で、その一室でおにぎりや本を売ったりして暮らし始めたのだ。

そこでも新しい出会いがあり、彼らの話を聞くたびに僕は嬉しかった。Kがこの町に来ることは段々となくなり、僕は僕で日ごとに苦しくなる店の支払いで、ただ作業に追われるばかりになって行った。それでもKの気晴らしのためにつくった「おすすめ動画」をみて、彼女たちも「おすすめがある」とつくったサイトに行けば、楽しそうにやっている様子を知る事ができた。しかしそのサイトが使えなくなり、その後は更新されることもなくなっていった。

去年の夏のことだ。Kは元気でいるだろうかと、散歩の途中で七夕祭りの日の阿佐ヶ谷の駅を降りた。歩いていれば、話に聞いていた仲間のBarの前でおにぎりを売っているKに会えるんじゃないかと思ったのだ。その頃にはもう三鷹のアパートも取り壊されていた。しかしどこを歩いてもわからない。そこでKの話にでてきた店で聞いてみることにした。ところがどこでも、「そんな人は知らない」と言われるばかりだった。翌日、Kにメールをだした。

その春に結婚してメキシコで暮らし始めたRの事やこの町の皆の近況と共に、「昨日は狐につままれたようだった」と書いた。「話は聞きました」と返事がきた。集中治療室にいた時の治療の後遺症で記憶が薄れていて、近況を送った皆の事もほとんど思い出せないというのだ。その事で「私にもよくわからない、のっぴきならない事態」があったらしく、「皆で、私の話は他言しないようにと話し合って決めたらしい」と書いてあった。

そして今はもう阿佐ヶ谷にもいず、「わけのわからない説明でごめんなさい」と結んであった。これ以上聞いても、Kや仲間からは同じような答えしか返ってこないのだろう。その年に、この町で一人暮らしをしていた母も死に、ようやくこの場所から解放されたのかもしれない。今はただどこかで元気でいてくれればいいと思うしかない。Kの忘れたい記憶は今も僕の机の引き出しの中に、あの時のまま残っている。

昨年の暮れにメキシコにいるRから「ネットに妙な噂があったけど、店をやめるって嘘ですよね」とメールがあった。本当だよ。店をやめたある日、シャッターの降りた店の前に置いてあるベンチに座って缶ビールを飲んだ。毎日無駄話をしていたお隣の美容室もこの春にやめてもうない。花屋のTuちゃんも昨日、店を閉めた。先が見えないのは皆同じだ。いつかRが帰国した時には、この町は見知らぬ町に変わっているのだろう。芝居をやっていたYからは店をやめたあと、「どうしてる」と電話があつた。何も変わらないな。バイト代が入ったからとYが買った缶ビール、うまかった。そうだね、生きている間に一度飲もう。

と書いていて、気がついた。片付けに追われていた頃、不調のパソコンを変え、その中にあった情報はすべて消してしまった。携帯を持たないので、机のあちこちにペタペタと貼ってあったいろいろな連絡先も捨ててしまった。まあ、ここにくればこちらの連絡先も、まだ生きているのかもわかる。気が向いたらメールでも下さい。軽トラにテントを積んで旅をしていた従兄弟からは、子供の頃にいた場所の画像が届いた。僕は忘れられない記憶や忘れてしまった風景を肴に、今日もパソコンの前でワンカップを飲んでいます。
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# by nakagami2007 | 2015-12-04 22:42

実店舗閉店への道3

もう少しで、閉店の後始末とネット販売再開の準備も終わります。12月は店舗とネットの仕事を続けながら、残す品、他店に売る品、他で再利用してもらう品、完全に処分する品の種分けにひたすら追われていました。たてばに処分するにもビニールを剥がすなど細かい作業も数多くあります。何とかすべて自力でと思うのですが、前回の移転の時などもそうですが、何かある時にはいつも助けてくれる誰かがいてくれて本当に感謝しています。

閉店すると知って他の町からも何度も来てくれる方や初めて話をする方も多くいて、店売りの愉しみを再び味わう事もできました。猫たち(置物ですが)もほとんどが旅立って行きました。店売りとネット販売を両立させるのは難しい事です。仕入れた中に面白い品が10点あれば他を探す手間もなく、追われる支払いのためにもその日のうちにネットに出品し、何日かすればすべて通り過ぎて行ってしまいます。どうしても店のことよりもネットが優先になってしまいます。

閉店の日が近づくと「飲んでください」とお酒を置いて行ってくれる方も何人もいたのですが、酒持込みOKの金曜日は静かな夜になりました。酒はたくさんあるのに人の姿はなく、片付けのピッチをあげていた遅い時間に日本酒を持った若い女性が現れました。時々見かける方で、しみじみと話しながら本当に良い酒になりました。閉店時間もとっくに過ぎた頃に花屋のTuちゃんが現れ、更にフラッと入ってきた「私はエグい男なんです」と言う面白い方もいて、結局何年ぶりかにSoのBarに流れました。終電はとうに過ぎ「今日くらいは送れよ」と言っているうちにお客はどんどんと増え、帰ろうとすると「今日くらいはカッコつけさせろよ」とポケットにタクシー代を。So、それはカッコつけすぎだよ。

最終日の27日は片付けも急ピッチで、店の撤去工事の事でもお世話になった商店会のTeさんが処分する品の多くを引き受けてくれました。慌ただしい日でしたが、夕方に去年再会した高校の同級生でD通のS君がきてくれました。いまだにM美大学院にいるTa君はG大から漫画家になった友人、版画家の彼女、私と同年齢の写植職人の仲間を連れて現れました。この店で一番多く話をしただろう自由人のC、アニメーターのKoさん、商店会の中華屋さん、近所のクレープ屋さんの娘がツマミなどを持ってきてくれ、母は生ビールをを差し入れてくれました。気がつくとよく見かけていたお客の方の笑顔もみえて、楽しい最後の営業日になりました。

29日は最後に処分する品をたてばに持って行ったり軽自動車に何本かの本棚を積んで、その後の準備も順調。年明けの2日から日曜以外は本格的な片付けに入り、一日3往復の本と本棚の運搬も9日には終了、木の棚などは細かくしてゴミに出したりしている10日に廃品回収の軽トラックが通りかかったので、残っていた本棚や小型の冷蔵庫など積めるものはすべて持って行ってもらいました。軽トラの威力は凄いです。

12日の月曜日にスチールの机と家具型のステレオを粗大ゴミに出して終了。自宅のネット開通の工事日が20日のため残しておいたパソコンと捨てることができないブロックだけが残った店で、年明けに一度この場所で飲もうと言っていたSoに電話をいれるとあちこちに声をかけてくれたようでした。ガランとした店の床のブロックに腰かけてCとHとビールを飲んでいるとSoの親父のデザイナーのKuちゃん(親父だが私よりも若い!)、花屋のTuちゃん、美容師のNちゃん、反骨公務員のKasさん、中華屋のKarさんが顔を出し、その後SoのBarへ。酔いました。商売としてはうまくいかなかったけれど、面白い連中がいてここで店をやってよかったと思えるきっかけをつくってくれたSoとCの幼なじみで画家のSiからはBarに電話があったようです。ごめん、酔ってまったく覚えてないけど感謝してる、ありがとう。

その後もやっておかなくてはいけない雑事をひとつひとつ片付けて、19日は商店会で最後の新年会兼送別会。会場の店に行くと、いつも酔っ払っていてあちこちの店で出禁になっている女性からの置き手紙を渡されました。引っ越してきたこの町で「不思議(変)と思われてるけどあなたも? いてくれてありがとうございました」というようなことが書いてありました。閉鎖的で変化のない町です。そしてどの店もいずれは退去する日がくるだろうから、言いたいことは言っておきました。コンクリートの床を壊し、壁の色まで元どおりの完全なスケルトンを求める公団のマニュアルは今の時代にはまったく合わないと誰もが思います。簡単には変えることはできないだろうけど、粘り強く交渉するしかありません。個人商店はこれからますます縮小していくだろう時代に、やめるにも膨大な費用がかかってはその後の未来も闇です。今週中には撤去工事も終了するので、今は来週の立ち会いで問題がない事を願うしかありませんが。

この27年間ずっと一緒にいたロッキンチェアーは、日本中を旅して一番お気に入りの場所だった穂高で家具職人をしている従兄弟に作ってもらった最高の品です。しかし本だらけの部屋にはもう物を置く場所もなく、置けたとしてもただそこにあるだけでは意味もありません。結局、Soの店に旅立たせる事にしました。これからもずっと面白い連中を見続けていってくれる事でしょう。ふと思いおこすと、よく見ていたあの人はどうしているのだろうと閉店までに会えなかった方たちの顔が浮かびます。またどこかでお会いしましょう。それまで元気でいてください。
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# by nakagami2007 | 2015-01-23 17:46

実店舗閉店への道2

あっという間に12月になってしまいました。物置になっていた部屋の片付けもようやくなんとかなりそうなところまできました。店の片付けも少しづつですが進んでいます。しかし古い手紙など、どうでもいいようなものほど捨てずにあるのは何故なのでしょう。身辺整理の良い機会にもなっています。

長年の確定申告書もでてきて、つい見入ってしまいました。昭和63年1月2日に開店して以前の店で丸20年、現在の店舗に移転して年末でちょうど7年になります。開店から5年間の売り上げはうなぎのぼりの上昇で、その後はネット販売や移転などいろいろとありましたが、下降は毎年変わらず見事にきれいな放物線になっています。

数年前に店を閉めた隣町のD書房がもう使わない梱包材などを持ってきてくれ、その時に置いていった名刺もでてきました。裏を見ると「アマゾンだ、ヤフーだと追い回され、我々は自由業だと言えるのでしょうか」と書いてありました。店で売れている頃は毎日通路を塞いでしまう大量の商品の整理に追われ、ネットに移行すればひたすら出品と梱包に追われてきましたが、それが仕事というものなのでしょう。今は少しだけ、夢だった店売りの「猫屋」を楽しんでいます。

今回、本やCDを勢いのあるといわれる店、専門店、老舗、大型チェーン店などに持ち込んで売る側に立ってみると、この業界の内情がよくわかったような気がします。巷間言われているのとまた違った景色がみえました。どの店にも一長一短あります。今ならご処分される方に、的確なアドバイスができると思います(苦笑)。

ネット販売や出張買取は継続しますが(一月は片付けのため休みます)、実店舗の営業は12月27日で終了します。19日の金曜日と最終日の27日土曜日は酒持込みOKにしたいと思います。ほろ酔いでゆっくり、やがて絶滅するかもしれない紙の書物や猫たち(置物ですが)と遊んでいってください。

駅の売店で手の届かないくらいの高さに積まれた新聞や山積みの雑誌が飛ぶように売れていたのも遠い昔になりました。駅の売店にまだ歩合制の委託の店舗があった頃、手伝っていたことがあります。次々と同時に何人ものお客が来るので、画像の早送りのように一瞬で釣り銭が渡せるようにしてあったものです。今では電車の中で活字を読む人の姿を見る事の方が珍しくなりました。

テレビをつければヒステリックな声が聞こえてきます。この国や世界のかたちは歪んでいくばかりのようにみえます。映画館のスクリーンに向かって「健さん!」「文太!」とかけ声がとんでいた日を思い出しながら昨日は少し飲みすぎて、今朝は布団の中に入ってきた猫とグダグダとする変わらない幸福を味わっていました。営業期間はあと少しになりましたが、よろしくお願いします。


時代おくれ
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# by nakagami2007 | 2014-12-03 15:29

実店舗閉店への道

いつまで店舗を続けるのかなんとなく考えていましたが、漠然と思っていた年齢にこの年末でなり、体力のある内にと年内での閉店を決めました。まだかなり先になりますが、無店舗で続けるための準備はやる事が多すぎて少しずつ動いています。家に帰れば、本棚十数本はおけそうなのでもう使えない雑誌やガラクタなどの片付けを始めています。店では処分する前に一度位は使っておきたい場所をとる品をネットでは優先し、他は持ち帰ってゆっくりと売りたい品、均一本にする品など種分けしたり、山になったままの雑誌や映画パンフや美術全集など処分する品も多くあります。他の雑事も果てしなくあるような気分でどこからどう手をつけていいのかという状態ですし、その間に赤字をどんどんと膨らませるわけにもいきません。それでも最後くらいはまだインターネットがない、店を始めた頃のように店売りを楽しめたらと思っています。

できるだけ店頭の均一本を補充していくつもりですし、部屋にあった大量の猫グッズなども店に並べてみました。年末にはもう一度、楽しかった酒持ち込みOKの日でもつくれたらと思っていますので、ぜひ営業期間中にお立ち寄り下さい。

今年の始め、多摩地区の情報誌に掲載されたおかげで数十年ぶりの旧友と再会しました。数年前に亡くなられたという彼の父はその頃でも「あいつはどうしてる」とこちらの事をよく覚えていてくれたようでうれしかったのですが、その時は大量の戦前などの古い本の処分に困ったという話をききました。とりあえずは神田の古書店がきてくれたようで五千円分の品を抜いて行き、残りは「ただ持って行くだけなら」という業者がすべて引き取っていったようです。「それはひどい」とも思いますが、それでも都心の店が来てくれたり、トラックですべて引き取るというのは大変な事で、それでよかったともいえます。実際に種々雑多な品を引き取りに行き、種分けし使えるようにするのに多くの日数や経費をかけていては、とても商売にはなりません。ほとんどは頼んでも来てくれず、来てくれても一向に減らず、自力で少しずつ古本屋に持って行っても値がつかず、ゴミとして処分するにも気力も体力もわかないという方が多いと思います。

実は最近、ネットでの需要は少ないけれど場所によっては店舗販売で何とかなるかもしれない定価の高い本や古い本を、その品にあった店に持ち込んでみています。仕入れ代を回収するのも大変な時代です。これがそのためだけに交通費をかけて持って行く個人であれば、やはり意味のない事になってしまいますが、散歩のついでに発泡酒代にでもなればと思えば、いろいろと興味深い事もわかります。実店舗をやめた後は、自由になる時間は今と違って格段に増えます。本などの処分にお困りの方がいれば、実際に現物をみてどうする事がいちばんよいのか、考えるようなことができればいいと思っています。連絡方法などはそのまま残しておくつもりですので、今後ともよろしくお願いします。
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# by nakagami2007 | 2014-09-08 18:11

特性のない男

店を移転する前の話なので、もう10年位たっただろうか。ある日、数冊の文学書を持った私と同年配くらいの男が現れた、それは特に珍しいものではなく、今では需要があるような品でもなかった。そう伝えると、その男が話しだした。長年勤めていた新刊の書店が廃業する事になり、住んでいた公営住宅の家賃も滞納で月末の退去を迫られていると言う。勤めていた書店は社会保障費を払っておらず、失業保険や年金のようなものもまったくないのだと。既に売れるような品はすべて売ってしまい、古ぼけた文学書だけがいくつか残っているようだった。「それで、何かあてはあるのですか」と500円玉を渡すと、頼れるような知り合いがいるわけでもなく、これでとりあえずラーメンでも買えると淋しそうに笑いながら帰っていた。

それから、何度か同じような品を持ってその男は顔をだした。売れるような品ではなかったが、そのたびに500円玉を渡して、何か良い方法はないものですかねえと同じ事を話した。いったんホームレスになってしまえば、そこから再起する事は困難で、普通の人間には過酷すぎる。実際に会った事はないが、この町にはよく知られた河川敷生活者がいる。夕暮れになると犬を散歩させながら近所の銭湯にやってくる。その後は飲み屋の店頭に犬をつないで、一杯やって帰るという何とも優雅な毎日という話だった。そういった生活力のある人は例外中の例外で、通常の社会生活を送ったとしてもうまくやっていけるのではないだろうか。

店を始めた頃からの客だったM君は、グループサウンズやその頃の時代の幻想から抜け出せず、仕事を辞めたりしている内に家賃が払えずホームレスになった。親父から勘当され、兄弟からも縁をきられだが、その頃はまだ母親が生きていた。身なりをきちんとするように家のものには内緒で洗濯をし、帰りにこっそりと小遣いを渡した。金が入るとM君はパチンコ屋に行き、大勝ちすれば好きだった時代の物を買ってしまう。そして金がなくなるとそれを売りにくるのだった。珍しい品も多く良い客だったが、パチンコのプロではずっと暮していけないだろうというと、負けた日は「多摩川の橋から飛び降りたいけど、簡単には死ねないものだねえ」と笑うばかりだった。

何度か姿をみせなくなったりしていたM君だがある日顔をだすと、父が死に、母が死に、今は誰もいなくなった廃屋のような家に寝泊まりしているといった。その頃にはもう、住む場所をなくして20年にもなっていたのだ。持ってきた品物をみて「良い物だけど、よく買えたね」というと、母の貯金を使い込んで買いためたという。そんな事もあって兄弟や親戚からは完全に縁をきられ、寝泊まりしていた家も借地で数ヶ月後には解体されるんだよといった。それから何度か売りにきていたのだが、解体がはじまったといっていたM君がパッタリと姿を見せなくなったのは数年前の事だ。

文学書の男が最後に顔をだしたのは、公営住宅の退去期限も迫った月末だった。「どうにかなりそうですか」と聞くと、府中に困窮した人を受け入れてくれる施設があり、とりあえずそこへいく事になったという。住む所と食う物がなければ先の事を考える事もできない。「よかつたですね」と言うと、「これが最後です。いい本ですよ」と2冊の本を渡された。愛読書だったらしいその2冊の事はよく覚えている。ムージルの「特性のない男」と、楜沢厚生の「<無人(ウーティス)>の誕生」という本だ。特性のない男、才能がないわけでもなく何かをしたいわけでもなく何もしない男、ウーティス、誰でもない者何者でもない者。何だかわかるような気がした。

買い取りますよと、餞別変わりのいくらかを渡した。「お元気で。ありがとうございました」というと、「そちらこそ、お元気で。お世話になりました」と店をでていった。その後はどうなったのかはわからない。そして私たちもまた、特性のない男なのだ。
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# by nakagami2007 | 2014-08-19 17:43

本の山の前に佇んで

今年もまた一年が過ぎた。年を重ねる毎に日々の変化は乏しくなり、時の経過が速くなるのはあたりまえの事だが、それにしても速い。毎年の事だが、日曜(と1月1日)以外は休む事もなく淡々と働く。本の価格が下がれば仕事量は増え、売り上げも体力も落ちて飲みに行く事もまったくなくなった。それでも変化がないという事は悪い事ではない。毎年同じ日の同じ場所に種を蒔き、同じに日に収穫ができるという奇跡が続いているという事に他ならない。

店に並べた本が死ぬまでに売れる量は、たかが知れている。それなりの値段で売りやすいものから順にネットで販売しているが、毎日の事なのでそれもすぐに行き詰まる。残った山を何度も掘り返している内にまた一年が過ぎて行くのだ。ネット販売は手間ばかりかかるが、売れなければいくら働こうが売り上げはゼロだ。売れた所ですべてが経費と仕入れに消えて行く。仕事というよりはもはや趣味だ。しかもギャンブルよりもリスクが高い趣味なので、始末が悪い。

客商売をしていると、さまざまなプライドとコンプレックスをかかえた人たちと出会う。人の顔や名前がよく覚えられないのは、一種の防衛本能なのだろう。古本屋には尊大な本、卑屈な本、楽しい本、悲しい本、といった感情が詰め込まれたいろいろな品が持ち込まれる。古本屋はすべてフラットにつきあうしかない。人と同じように本に貴賤があるわけもなく、価値観は人それぞれだ。古本屋がつける価値は店を維持させるためだけのものでしかない。店売りは本当に難しくなってしまったが、千円札一枚で何冊もの雑多な本と出会える場所であればいい。

自分のプライドと相手のプライド、それぞれのコンプレックス、それぞれの怒り、それぞれの悲しみ、それぞれの恋愛感情、それぞれの宗教感、それぞれの愛国心、すれ違う事ばかりだが相手の立場になって考える他に道はない。相手の立場にたてない自己本位のストーカー気質の人が増えている。今この国を動かしているのも、そういう人だ。それぞれが寛容になる事以外に何があるのだろう。

何かができても、何もできなくても人は単なる人だ。他の誰かより、ましてや猫や他の何かよりも上等であるわけがない。店を閉めていると、何度入社試験を受けても就職が決まらないと言っていた女の子が、「もう戦争しかないっすかねー」と言って通り過ぎた。ナチスのような優生学や民族浄化があれば、役に立たない国民として真っ先に排除されるのは古本屋だろう。

そうだろ、フーテン暮らしの爺さん。

落陽

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# by nakagami2007 | 2013-12-30 13:26

年末の夜に

しばらく姿をみていなかったTさんが、いつものように穏やかな笑顔で顔をだしたのは、今年の始めの頃だった。「リンパ腫で、このままだと余命半年だよ」と言う。どう答えていいのかわからなかった。春になって現れた時には、「これが最後かな。痛くはないし、死ぬ気がしないんだけどね」と何冊かの本を買ってくれた。「じゃあ、また」と言うしかなかった。それっきり、いくつかの季節が過ぎた。

Tさんは私より年下なのだが、古本屋修業時代からのお客で古書店通でもあり、私にはお客の立場からみた古本屋を知る師匠だった。古本屋巡りと散歩が好きで、気負ったところがまったくない人だった。話をすると、妙な自意識と正義感と、世俗にまみれた人ばかりの中で、Tさんは違った。「あの散歩道はいいね」といった話をしながら、何度か飲んだ。「死ぬ前に、鶴見川の源流に散歩にいってこよう」と言っていたが、どうしただろう。Tさん、私は行ったよ。

Tさんは時折、特殊な本を持ってきてくれた。他の古書店にもないような、まだ扱った事のない品は古本屋には大きな楽しみだ。そういう品は安売りをする必要はないが、簡単には売れない。「売れない物で悪いね。今度はすぐに売れる品を持ってくるよ」と、売った代金で店の本を買っていってくれた。Tさんと飲んで、ほろ酔いになるとよく、友人が一時期やっていた古本屋の話になった。スーパーの店頭にあった一坪くらいの駅の売店のような、奇跡の店だった。最近は散歩にでかけても古本屋に寄る気がおきない、と言っていたTさんだが、その店の話になると「あの頃は面白かったねえ」と笑った。

品揃えの選択肢が多くあるよりも、少ない方が売り上げがあがるという有名な実験結果がある。古本屋でも同じだ。ほしい品が数冊であれば、この店に置いておいてもと、既に持っている品まで買ってしまったりする。ほしい品が山のようにあれば結局選べず、この店の棚に並べて置いた方がいいんじゃないかと、何も買わずに帰ってしまう。どんな仕事でも方法はいくらでもあるが、継続するのは本当に難しい。

この町にもシャッターの降りている店が増えた。続けている店も、やめれば支払いだけが残るからというところも多い。借金をつくれば、利益はでずただ支払うためだけであっても、やめる事さえできなくなる。もうやめようと思った事は何度もあったが、そういう時には不思議と多くの良い品を売ってくれるお客が現れたり、必ず売れる趣味の本や新しい本の山を、「つまらないものを持ってきて悪いけど、処分しておいて」と置いていってくれる近所の人たちに助けられた。彼らやTさんのようなお客がいなければ、とっくに店をやめていただろう。

プレゼンテーションやディベートに勝ち抜くような生き方が、日本人に合うとはとても思えない。多くを語らず、淡々と良い仕事をするといった事が忘れ去られていく。政治家の言う「美しい日本」とは戦前の事だ。彼らの頭で遡る事ができるのは、そこまででしかない。他の国にはない、この国の文化の本質は、何かを得るためにするのではない、「数寄」にある。新しいスタイルを知るたびに刺激は受けるが、何者にもならないために、もっと多くを知りたい。

凍える冬、コンビニの電子レンジで紙製のカップ酒を30秒、暖めてもらう。冬枯れの林では、鳥や猫が遊んでいる。人は、そう簡単には死なない。そうだろう、Tさん。すぐに、また春がくる。暖かくなったらもう一度、愉しかった散歩の話でもしよう。
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# by nakagami2007 | 2012-12-28 21:07

古本屋という仕事

古本屋を始めて25年になる。古本屋を始める前の、6畳と4畳半の襖をはずした引き戸の、風呂もない安アパート(隣が銭湯だった)は本だらけで、2段ベッドを置くとようやくコタツに座れるスペースがあるだけだった。本がなくなればスッキリするので、古本屋をやる事にした。本というのは重く、いつか金のない時に売りにいけばいいと思っている内に、それも億劫になり、どんどんとたまっていくものだ。古書店には中学生の頃から、売買両面でいろいろな店へ通っていたので思い入れもある。とりあえず既に古書店をやっていて、独自の分野で実績のあった友人の店で修行をさせてもらう事にした。買入や古書市場への搬入の手伝いをしながら買い方などの古本屋の仕事を覚え、時折店番をしながら、そこに置いてあるさまざまな店の目録などをみて、相場ノートなどを作った。

古本屋への第一歩は車の免許をとることだった。地図調査の仕事をしながら自動車学校へ通った。免許をとると、運転の練習などを兼ねて、配達の仕事をしながら店を探す事にした。車は商用の大型のワンボックスを手放したいという古本屋から、格安で譲ってもらっていた。しかしまだバブルの頃で空き店舗がない。どんな店をやろうと、たいていは商売になってしまう時代だったのだ。中央線沿線でたまに空き店舗をみかけても、保証金が何百万もするので、どうにもならない。「裏の川で釣りをしています。声をおかけ下さい」と店頭に書いておいてもよさそうな、山の中まで車を走らせた。そんな場所でも、家賃さえかからなければ、負債をかかえるような事にはならない。即席麺やワンカップを買うくらいはできるだろうと思っていたのだ。

ある日友人から、青梅線の線路沿いに空き店舗をみかけたと連絡があった。友人の結婚式で着た事があるだけのスーツをひっぱりだし、不動産屋にでかけた。元は運送会社の事務所で、持ち主から親戚に貸す予定があるからと一度は断られた。しばらくして、不動産屋から貸す予定がなくなったという連絡がはいった。商店街から離れていて人通りもない場所なので、店舗には向かないということになったのだろう。保証金もなく、敷金・礼金でよかったのだが、家賃はそのあたりの相場通りの坪1万だった。しかし電車からみえるのは、古本屋には好都合だ。本好きが気付いてくれれば、商圏がうんと広がる。店の棚を埋めるための一般書は市場で一山で、いくらでも安く買えた。アパートの大家に頼み込んで、空きスペースにしばらく置かせてもらっていた。

契約が済むと、とにかく早急に開店をしなければならなかった。電車からよくみえるような大型の看板をつけ、安売りの本棚を必要分買い入れるともう運転資金がない。車でひたすら本を運び、友人に手伝ってもらい値付をしていった。数週間後の年明けすぐに開店をし、友人たちが手づくりのチラシの投函を引き受けてくれた。店の家賃15万は、住んでいる安アパートとは桁違いだ。経費もどのくらいかかるのかよくわからなく、家賃が払えなければすぐに行き詰まる。とりあえず年中無休にして、昼の12時から夜の10時まで営業する事にした。少しすると知られるようになって、いろいろな物が持ち込まれるようになった。店に置いてなかったCD(レコードからの移行期だった)やビデオや写真集なども、でたばかりのものが持ち込まれる。3000円定価の品を1000円で買うと、すぐに1500~2000円で売れた。大量消費の真っ只中にいた。

店を始める前に悩んだのは、組合に入るかどうかだった。専門店化や目録販売、催事での販売を考えれば、市場での本の交換(売買)が必要になるが、そうではないなんでも引き受ける「街の古本屋」にしたかった。店が自分の書斎や趣味の部屋のようになるのは恥ずかしいし、店では絶対に売れそうにない専門書などは、高く買い入れできそうな店を紹介すればいい。それに市場での売買は友人などに頼めばできる。店を続けられる見通しもなかったし、組合の入会金の問題もあり、市場の縦型社会の雰囲気も性に合わなかった。できるだけ自給自足の店にする事に決めた。「街の古本屋」はたいてい自分の蔵書が元になるし、売れ残った品の取捨は店主の判断になるので、何でも扱うといっても、どの店にも特色はでる。しかも老舗などが扱っている分野はどうにもならないので、たいていはサブカルチャー色が強くなる。その頃はまだそんな店もなかった。

今は新しいタイプの専門店ができて、成功している店も多い。専門店というのはいわば同好の士が集まるサロンだ。その分野で、店主に何かしらのカリスマ性があるから、高い値段でも買ってくれる顧客がつく。他店でその店にあった品をみつければ、赤字になる事がわかっていても買っておいて、わざわざ売りにきてくれるのだ。飽きやすく、思い入れのある分野もなく、その事について語るべき言葉も持たない者にはできるわけがない。まだ出会った事のない品を愉しんでいる方が性に合っている。何でも買うつもりでいたので、8ミリの映写機にフィルムなどいろんなものが持ち込まれた。書籍以外の品目も申請していたので、いずれはゴミになるガラクタも面白がって買っていたのだ。

古本屋の店主には本などを読み、客が入ってくれば眼鏡の奥からジロリと睨むというようなイメージがあるが、本を読んでいてできる仕事などあるわけがない。そうみえる店も、店にあった品揃えのために動き回り、自家目録のために忙しく原稿をつくり、催事や市場にだす品の荷造りや運搬などに常に追われているのだ。店が軌道に乗ると、持ち込まれる品で通路にも物があふれてしまうようになった。トラックで運んでくる、ちり紙交換や引っ越しの業者も多かった。店の造りが変則的だったため本棚の裏に倉庫変わりのスペースもつくっておいたが、すぐにいっぱいになる。残しておきたい品は痛まないように、雑誌はビニール袋に入れ、単行本にはビニールカバーをつけ、ひたすら値付をしているうちに一日が過ぎる。店頭本の本棚やワゴンもすぐにいっぱいになるので、しばらく売れない品は、開店前の午前中に処分にいった。

処分や出張買取などの予定のない午前中は、その頃埼玉方面にでき始めた大型のリサイクル型の古本屋を回った。そのあたりにある出版関係の倉庫からの処分品が流れてもいたのだ。廃刊になったばかりのサンリオSF文庫が山積みになっていたりしたので、せっせと買いにでかけた。埼玉にある古本屋から「今夜、ゾッキ本(新古本)の業者が来る」という連絡があれば、店が終わった深夜に車を走らせた。めまぐるしい日々だった。そのうち仕事にも慣れ、何もない夜は飲み屋に行き、飲み過ぎた朝はサウナに寄って汗をながす余裕もできた。アルバイトを頼んだのは、その頃だった。アルバイトといっても、二人で店にいても何の役にもたたない。売り上げの中から日払いで支払っていたので、信用ができなければどうにもならないし、開店から閉店まで、本の整理などもすべてをまかせなければならないのだ。何人かの美術学校生がやってくれたのだが、バイトには恵まれ、ようやく休みがとれるようになった。しかし休みといっても当初は、神田まで国書刊行会などのゾッキ本を仕入れに行き、映画チラシの蒐集をしている多忙のお客のかわりに、置いてある場所を回ったりしていた。

その内にバブルが終わり、数年前から増え続け、店の近所にもあちこちにできていたリサイクル型の書店があっという間に閉店していった。更新のたびにあがっていた店の家賃は18万になっていて、他の経費もどんどんと膨らんでいた。仕入れも少ない月でも50万以上は買っていたのだ。経費の見直しをし、家賃の値下げ交渉などもしたが、買入はかなり減ったとはいえ、今まで500円で買っていた品を、いきなり50円、100円にするわけにもいかない。これらの今までように売れる事はもうないだろうと思いながら買っていた品が不良在庫になり、どんどんと重くのしかかってきた。バブルの頃は文字通り、金は泡のようなものだった。誰もが買ったばかりの品を、その日の内にもう飽きたと売りに来るような時代だった。泡はどこかへ消えていく。それでも言われるままに入っておいた積み立てや保険がいくつかあったので、それらを解約して赤字の補填をしていたが、それもいつのまにか消えて行った。

店の売り上げ減を他で補填しようと、パソコンを買う事にしたのは10年目の事だ。この仕事をしなければ車もパソコンも持つ事はなかったろう。携帯も持ちたくない。固定電話も店にあるだけで充分だ。財布や時計はいらない。エアコンやストーブは元々苦手なので、住居にはない。部屋や外で音楽を聴く習慣はないのでオーディオを持つ必要もない。テレビを持たない時期も長かったので、ラジオでもあれば問題ない。収入はなくなったが、衣食住にはそれほど興味がない。稼げていた頃も日常生活のレベルは変わらず、同じ安アパートに住んでいたので、食うだけであれば日々の暮らしへの打撃はそう大きくはなかった。店が赤字になったので、その頃に団地に引っ越す事ができた事くらいが生活の大きな変化だ。今、店で使っている小さい冷蔵庫は一人暮らしの頃に買った40年前の物だし、着ているコートなどもその頃のものだ。必要に迫られて買った車やパソコンだが、それはそれで面白い経験にはなった。あの頃がなければ、4駆の車で旅をするというような事もなかっただろう。

パソコンは既に始めていた古本屋の友人知人の世話になった。その頃でも店では店の仕事が多くあったので、とりあえずは部屋に置く事にした。ホームページをつくり、帰った後に毎日書籍の入力をする。古本屋を始めて本を読む事も少なくなったが、今度は帰ってレンタルビデオを見る事さえできなくなった。しかし、個人のサイトではいくらがんばってもたかがしれている。そこで興隆になってきていたヤフーオークションに参加する事にした。店では高額で飾りになっていた5,60年代のパンフ、チラシや雑誌、本棚の裏で眠っていた品が高値で売れたので、一日数点の出品で一息ついた。しかし、それも長くは続くわけがない。その頃、中古品を扱う事になったアマゾンから参加してもらえないかという連絡があり、ヤフーでは売りにくい書籍を出品する事にした。それもあっという間に参入する者が増え、数をだせばだすほど、店で売れた品の管理もできずにすぐに煮詰まってしまった。結局、5年前の店の移転の際、一旦すべてを削除した事をきっかけに撤退する事にした。

そしてこの晩秋、一度は店をやめる決心をして、とりあえず店頭にある品などを処分しに行った。何度か運んだが、一向に減った気配はない。本の山の前で途方に暮れた。住居のポストにあった、近所にあるヤマト運輸の1日4,5時間、時給1200円の配達の仕事のチラシに心も動いた。店を始める前に経験した仕事の中で、多摩湖の自転車道やあきる野の基準点をつくった測量のように、楽しかった屋外での作業を思い出していた。机での作業は向いてないのだ。しかし店を閉めるのも、そう簡単ではない。その後、事情が少し変わったので、とりあえず店を続ける事にしたが、明日の事は誰にもわからない。いつでもやめられるように、部屋に置いてある品や店の片付けも、体力や気力のある内に少しずつやっていく事にした。日々の仕事に追われて、そのままになった品が山のようにある。

お客から出張買取の電話があっても、ほとんどは内容は曖昧だ。本の処分はあまりにも大変なので、とにかく持っていってほしいという方が多い。実際に、もう使えない古い文学全集や美術全集、そのまま資源ゴミにだすしかない最近のコンビニ雑誌の束の山に、ため息がでる事もある。しかしたいていはいくつかの使える、珍しい品はあるものだ。それは、いくらなんでもこれはと、ゴミとして別にしてある中にあったりする。最近ではどうにも体調が悪い時に、電話の内容からお断りしてしまった事もあるが、できるだけ伺うようにしている。晴れた日の午前中、AMラジオを聴きながら車を走らせ、そのお宅へ着くまでの間の時間は、店を始める前の準備期間に感じたワクワク感と、いつまでも変わらない。それは、その後にあるかもしれない徒労感や疲労感よりも、やはり大きいのだ。

この25年で、何でも売れるような時代から、店頭の均一本を売る事さえ大変な時代に変わった。飲む場所やでかける場所や使っている車も変わっていったが、何をしていてもどこか落ち着かなかった。どこにいても、店の人や他の客に気疲れするばかりだった。しかし、ポケットに小銭が、バッグの水筒に酒があれば愉しい休日は、古本屋を始める前も、今も変わらない。身軽であれば、いつでもバックパッカーになれるという気分でいられる。本も人も、どうあがこうと、一瞬で忘れ去られていく。好奇心が向くのは物にではなく、本の山の中にもある、この世の「うつろい」、「はかなさ」や「けなげ」というようなものだ。

本を運び、処分する肉体労働が古本屋の仕事、「本のおくりびと」が古本屋の仕事だと思う。いつまで続けられるかわからないが、自分で引き受けた品はできる限り、自分で送ってやろうと思っている。

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後日、記

仕事をやめて、タイやその周辺の国を一か月半くらい旅していた、Rが顔をだした。「冷蔵庫、洗濯機…いりませんか」って、生活用具一式…。俺だって、余計な物は捨てたいよ。この間まで、もういい年だし、男が…、仕事が…といってたように思いますが…(笑)。なんだかいっぱしのバックパッカーかボヘミアンのようだね。そうだね。半年くらい必死で働いて、今度はもっと納得いくまで、いってらっしゃい。古本屋をやめたら、俺は散歩人になる。まあ、今もたいして変わらないけど。その時は、ノンアルコールじゃない発泡酒で、乾杯しよう。
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# by nakagami2007 | 2012-12-01 14:07

冬の古本屋

去年の暮れの事だ。青梅の古書店のNさんが久しぶりに顔をだして、「倉庫を引き払うんで、古い雑誌なんかいらないかね」と声をかけてきた。そろそろ催事などでの販売をやめて、目録一本にしたいという事だった。使えるものがいくらかでもあれば有り難い。「少し早起きをして、開店前にドライブがてら寄りますよ」と答えた。近頃は遠出の買入もないので、たまにはのんびりと青梅まで車を走らせるのも悪くない。

段ボールをいくつか車に積み込んだ後、Nさんの店で一服した。店といっても、自宅の一角を使って、今では店売りもしていないので事務所兼書斎のようなものだ。その何本もの棚のすべてに、古い児童向けの読み物や探偵小説がぎっしりと並んでいた。珍しいものばかりで、中には数万、数十万するような品もかなりあった。古本屋を始めた頃に寄った時には、そこには近代文学の初版本などがあった。「あれらはどうしたの」と聞くと、「売れないものを持っていたって仕方ない。いくらかになればいいんで、すべて処分したよ。初めっから今のようなジャンルにしとけばよかったなあ」と笑っていた。

Nさんは以前は勤めながら古本屋をやっていて、今では年金をもらっている兼業古本屋だ。店をかまえていては、そうはできない。近代文学書のように、持ち込まれる品はお客が大切にしていた、今ではどうにもならないものが多い。仕方がないので利益はでないけれど、何とか赤字にはならない金額を提示しても憤慨されるような事になる。商売にならない上に、そういった品が残っていけば「応接間にある教養」のような、魅力のない退屈な棚になっていってしまう。「ゴミの処分を頼んで、お金まで貰っちゃあ悪いわねえ」などといわれる品の中に、面白いものがある。そういった中にこそ、「自由な遊戯」はあるのだ。

年明けに見知らぬ女性が訪ねて来た。店によく来ていたS君と一緒に暮らしているものだという。S君の顔はもうずいぶんと長く見ていなかったが、病気の親の面倒をみるために東京と九州を行ったり来たりしていたので、田舎にいるのだと思っていた。「Sさん、二か月前に死んだんですよ」と彼女が言った。驚いた。エネルギーの塊のようだったS君が、50そこそこであっけなく死んでしまうなんて信じられなかった。「夜勤で倒れてそれっきり」、ようやく外にでられるようになったという彼女が、寂しそうに笑った。

S君が初めて店に来たのは、もうずいぶんと昔の話だ。それ以前には中古レコード店や音響の仕事もやっていて、特に音楽に関する知識はとんでもなく深かった。何しろクラシック、ジャズ、ロック、ワールドミュージック(からアニメソングまで)などジャンルを問わず、聴き始めるとコンプリートせずにはいられない性格なのだ。そしてその周辺の遥かに広い分野まで大量の書籍(原書まで)を読み漁る。器材を買い込んで、同じ音を再現したくなるというのだ。好きなものの周辺をただ漂流しているだけで、隙間だらけの私などとはまったく違っていた。筋金入りの元祖オタクだ。金が入ると、そういった品を買い込んで、山のような紙袋を持って店に現れた。

古本屋には、そういうお客は多い。彼らが話し始めると、まったくついていけずに閉口する。しかし店ではレコードも扱っているので、S君の知識にはずいぶんと世話になった。しかも、そういった人たちが持っている品はどんなジャンルにしろ筋が通っているので、間違いがない。ある日、S君が昔コレクションをしていた輸入物のボードゲームを処分したいと言って来た事があった。こっちにはまったくわからないジャンルだ。「売れたら五分五分という事でかまわないよ」というので引き受ける事にした。それらが思いがけない高値で完売したので、数ヶ月も楽をさせてもらったこともあった。店をやっていれば、非常識で理不尽な事も多くある。それでも面白い連中がいるから、なかなか店はやめられない。今は、S君の冥福を祈るばかりだ。

入院中のKの暇つぶしのためにHが始めたおすすめ動画だが、そんな和むような面白い画像を知っているわけもなく、あてもなく探す事もできるわけがない。結局、早めにあけた開店時間のコーヒータイムで簡単にできるので、自分の好きなものだけを並べる事になってしまった。それはS君のような人たちの興味の膨大な蓄積とは違って、長く生きてきた私の気侭な散歩の痕跡だ。多少の職業意識も働いて、自分が面白いと思った本の案内や書評へもリンクさせるようになった。それらはかって、古本屋でそれなりに売れていたのだが、今では読む人も減ったと思われる品だ。そこからひとりでも、好奇心の範囲が広がったという方がいればうれしい。

そのKだが、結局治療を中止して退院をした。今は井の頭付近にある知人のアパートの一室を借りて、おにぎりや古本などを売ったり、手作りの小物をデパートの催事で販売したりして暮らしている。吉祥寺周辺の新進の個性的な古本屋や映画館をやっている連中、催事で出会ったものづくりの人たちとの面白い輪も広がっていって楽しそうだ。たまに、一杯やりながら本や映画の話をする古本酒場もやるという。この町ではうまくいかなかったが、あのあたりなら楽しくやれるだろう。一時はどうなってしまうのだろうと心配したが、そんな時間がゆっくりと長く続いていってほしいと願っている。
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# by nakagami2007 | 2011-02-23 17:51