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ピンク・フロイド

彫金やデザインの仕事をしていたS君がお向かいの飲み屋をやる事になったのは、去年の夏の頃だ。飲み屋をやっているTさんはイベントなどを企画してお客を呼ぶ事は得意だったが、あてもなくお客を待つ日常には向いてないようだった。突然の休業日が増えていた。Tさんから、「店をやってみないか」と言われたS君は子供が産まれたばかりで、安定した将来を模索していた。やっていけるだろうかと聞かれたので、「先の事はわからないが、とりあえず並行していろいろと試してみればいいんじゃないか」と答えた。S君がまかされた店は、どの商売でも先がみえない厳しい状況にしては、割と順調に利益をだしていた。

しかし元ヒッピーで、気ままな商売で何度か一山当てたというTさんと細部まできちんとした契約ができるわけもない。結局半年でやめる事になった。商売も面白くなっていたS君は近所に手頃なテナントをみつけて自分の力で店をやってみたいと言った。さすがにその時は「やってみればいい」と言う事はできなかった。それでも自力で内装をし、始めた店はそれなりに利益を出し続けているようなのでたいしたものだ。それから金曜日の飲み会の後には店に顔をだしている。その店にはレコードプレーヤーが置いてあった。そんなある日、飲んでいるとS君が、親父世代の連中がレコードを持ち寄って音楽を聞きながら飲む「親父ナイト」をやりましょうと言った。

結局、そういった連中が同じ日にあいた時間をつくる事は難しく、その企画はとりあえず中止になった。第一、若い客層には古い音楽を流したところで何のメリットもないだろう。それでもその話を聞いた後の夜、部屋でちびりちびりとやりながら、何のレコードがいいのだろうと酒の肴に考えた。店ではレコードも扱っているので、本同様にすべてを商品にしてしまっている。その中でピンク・フロイドのアルバムの何枚かが残っていた。かけるとすればどの曲を選んだらいいのだろう。そう考えながら飲む酒は楽しかった。

まずはシド・バレットのソロ・アルバム「幽玄の世界」から「金色の髪」か。シド・バレットはピンク・フロイドのリーダー格だったが、ファーストアルバムである程度の成功を収めた後、すぐに脱退してしまった。「金色の髪」はジェイムズ・ジョイスの詩に曲をつけたものだ。次はシド・バレット脱退後のアルバム「神秘」から「神秘」。シド・バレットはソロコンサートでオリジナルのどの曲を演奏していても、いつのまにか「神秘」のフレーズを延々と弾き続けるようになってしまっていた。

その次は「狂ったダイアモンド」。ピンク・フロイドは「原子心母」から「狂気」へと世界的な成功を収めていた。その後、ずいぶんと長い期間を経て発売されたアルバムが「炎」だ。このアルバムを初めて聴いた時は拍子抜けをしたものだ。「狂ったダイアモンド」は演奏時間としては大作だが、これまでのような様式美も実験性も感じられない素直な曲だった。このアルバムにはもう一曲、さらにシンプルな「あなたはここにいてほしい」という短い名曲がある。どちらも社会的、経済的成功とは無縁の別の世界に行ってしまったシド・バレットの事を歌っている。

最後は「原子心母」。この曲を初めて聴いたのは音の悪いトランジスタラジオだった。それでもこの長い曲には興奮した。その年、ピンク・フロイドが箱根に来るという事を、同じラジオで知った。18歳の夏だった。金がないのでヒッチハイクで箱根まで行く事にした。米軍の円筒形の大きなリュックに寝袋などを詰めてでかけた。箱根に向かう曲がりくねった道を、乗せてもらったバイクが倒れそうになりながら走る。その度にリュックが左右に揺れ、振り落とされそうになると会場へと向かう観光バスから歓声があがった。

ロック・フェス「箱根アフロディーテ」には多くのバンドが出演していた。夕方までは、フライド・エッグなどの日本のバンドが出演するサブステージで聴く事にした。初めて生で見る山下洋輔の演奏に釘付けになっていた。ちょうどその時、膝の上に何かが乗った。下を見ると、そこにはこちらをを見上げる少女の笑顔があった。その体勢のままで「ごめんなさい」というので、僕は「どうぞ、ご自由に使って下さい」と答えた。彼女はK高校に通う16歳で、軽音楽部の仲間たちと来たと言った。

夕方、メインステージでピンク・フロイドの演奏が始まる時間になった。僕たちは、彼女の仲間たちから少し離れた場所に座っていた。すっかり日も暮れる頃に「原子心母」の演奏が始まった。すると突然風が吹きはじめて、空を黒い雲がステージから後方へと勢いよく流れて行く。それからずっとキスをしながら聴いていた。彼女たちを乗せたバスを見送った後、その夜はそこで野宿をした。翌日はまたヒッチハイクをして、カルメン・マキとOZなどが出演した「精進湖ロックーン」へと向かったのだった。

その夏は阿部薫頭脳警察、ロストアラーフの出演した三里塚の「幻野祭」にも行った。まだ携帯電話などなく、固定電話に加入するのも大変な頃だ。彼女とは何度か手紙のやりとりをし、2,3度会ったがそれきりになった。彼女は学校の勉強やバンドの練習に忙しく、G大の受験に失敗した僕は進路を迷っていた。美術研究所には何年か通っていたが特別に絵を描く事が好きだったわけではない。フルクサスなど、その頃のアヴァンギャルドな芸術運動に憧れていただけだった。研究所の階段で煙草をふかしながら、デュシャンやボイスやゴダールの話をしているうちに時は過ぎていた。

「この先、どうなっていくのだろう」と思いながら、新宿西口を歩いていた。30を過ぎて、普通に暮らしている自分の姿を思い浮かべる事はまったくできなかった。催涙ガスが目にしみて泣きながら、更けてゆく夜の街をどこまでも歩いた。
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by nakagami2007 | 2008-06-24 14:13