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しあわせの書 

出版不況といわれながらも、出版点数は膨大になるばかりだ。選択肢が多いのは良い事ばかりではない。選択の段階で消耗してしまい、今日はやめておくかという悪循環になる。そうしている内に未読の本の山からどんどんと遠ざかっていってしまう。高校に入った頃だったか、同級生に金持ちの息子がいて、ハヤカワポケットSFシリーズのすべてを持っていた。貸してくれるというので1日1~2冊読んでいったら、たった数ヶ月ですべてを読み終えた。選択などする必要がなかった。高校の授業に興味を失うと、上野毛にあった図書館に行った。毎日数冊、端から読んでいった。理解の出来ない難解な専門書は、キーワードだけ探しながら飛ばし読みをした。選択をしている時間に1冊読めると思った。

エンターテイメントの小説の中でも推理小説は、今までに何度かまとめて読むような時期があった。子供向けの少年探偵団やシャーロック・ホームズなどを読んでいた頃。アガサ・クリスティやエラリー・クイーンやディクスン・カーなどの翻訳物の頃、江戸川乱歩や夢野久作や小栗虫太郎の頃、中井英夫や都筑道夫や横溝正史の頃、竹本健治や綾辻行人や島田荘司などの頃だ。ここには社会派の名前はないが、まったく読まないわけではない。読めば犯罪者の心理や病理、社会的背景などの描写力に感嘆する事も多い。しかしそれは深浅の差はあるが、自分自身が現実に起きている事件などに思いを巡らせている時の弱者の視点とそう変わりがあるわけでははない。この手のエンターテイメントには奇想天外、空前絶後の想像力、脳髄がクラクラするような仕掛けやペダントリーを求めてしまうのだ。

推理作家の泡坂妻夫が亡くなった。新聞の2,3の追悼文を読むと、どれにも「しあわせの書」という書名が載っていた。泡坂妻夫の作品もかっていくつかは読んではいたが、熱心な読者ではなかった。この作品も未読だったので、早速購入してみた。読み始めると特に奇抜な設定や展開があるわけでもなく、どんどんと読み進んでいってしまう。そして何という事もなく読み終える最後の頁の、一見すると何でもない会話文のたった一言に「あっ!」と気付かされた。それから慌てて前の頁を遡って開いていった。この小説はそのためだけに作られていた。遊び心をこんな風に形にできるのだと驚かされた。そこには人生や生活への指針のような、人を迷わせる不純物はない。作者の企みを共有できる純粋な快感だけがある。

音楽への興味もそうだ。選択肢は多くあっても、どちらも年をとる毎に出会いの幅は狭まっていく。それはいろいろな事を知り始める頃の出会いと、知ったしまった後の出会いでは好奇心の在り方も違う。新鮮な喜びがそうあるわけもない。たまにCDを買っても、すぐに飽きて処分してしまう。ここ何年かの店のBGMのほとんどがシガー・ロスばかりだ。それ以前の何年かは毎日、落語を聴いていた。今はシガー・ロスと酒を飲んだ時のためのトム・ウエイツのアルバムだけはすべて残してある。

シガー・ロスのDVDを観た。アイスランド…、水、雪、氷、石、火、低い草、土の道、木の家、岩山、暗い空、沈んだ色…、アコースティックギター、オルガン、鉄琴、バイオリン、チェロ、ウッドベース、ドラム、静寂…、それでいて高音量でなくても音の厚いプログレだ。
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by nakagami2007 | 2009-02-19 21:43

ノスタルジア

店の壁に一枚のポスターが貼ってある。映画「ノスタルジア」のポスターだ。タルコフスキーは大好きな映画作家だ。彼の作品の中でも「ノスタルジア」は特に印象深い。それは「この地上にはない場所への郷愁」や「現実にはおこらなかった過去への追憶」のようなものを思い起こさせてくれる。そこには世俗にまみれて地を這う自分の姿も、天上を飛行する夢の自分の姿もない。アンゲロブロスの「こうのとり、たちすさんで」のように、何もない荒野にただ佇んでいる。その電信柱が私だ。

現実にあった過去への郷愁を忠実に再現すると、日本では「三丁目の夕日」になる。最近続編もみたが、前回同様ひどい映画だった。原作で印象に残るのは、「トランクに詰めた電球を売り歩く不思議な男」が死ぬと海一面に電球の灯が広がっている、というような話だ。そういった要素をすべて取り除くと、平坦な人情話になる。もっとも昭和30年代の東京を細部まで再現するための映画なのだから、それでもいいのかもしれない。しかしその風景がまったく魅力的にみえないのだ。「地下鉄にのって」の、タイムスリップをした戦後の中野坂上付近の安っぽい造りや、「異人たちとの夏」でこの世のものでない両親が暮らす色調を押さえただけの今の浅草の光景の方が懐かしく思える。それがCGの限界だ。パソコンで読む文字には、活版印刷のインクの匂いはない。星もない闇夜に知らない町を歩いていると、簡単に時空を超えられる。そしてコートのポケットの隙間からは、いつも月明かりが漏れているのだ。

そうした時にも、この地上のいたるところで災厄は起きている。人は天上の愛と世俗の欲に、いつも引き裂かれている。アメリカはヨーロッパでは報われなかったプロテスタントが原住民を駆逐した神経症の国で、日本は江戸幕府を支えた藩閥が帝国主義へと走った分裂症の国だ。それがいつかくる限界への矛盾を内包したまま、世界1,2位の経済大国になった。そして失う物の大きさにうろたえている。パニックが進行すると人は思考する事をやめ、やがて自分だけはその災厄とは無関係であるかのようにふるまうようになる。その心の奥では「どうにもならないのなら、世界観を変える大きな力を待望する」という思念がうまれる。先の大恐慌では職を失い食うものにも困った国民の多くは、どこかで戦争を望んだ。子どもたちも一様に、愛国少年になっていった。

テレビをつけると、アメリカ初の黒人大統領の就任式の熱狂が映し出されていた。熱狂は暴走を許すし、簡単に絶望にも変わる。その時には、何が起こるのだろう。バラク・フセイン・オバマ・ジュニアという名は後世に、どのような形で残っていく事になるのだろうか。
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by nakagami2007 | 2009-02-04 15:45