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さよなら僕の夏

少年の夏の日、海辺に佇んでいると、遠くで死に遅れた恐竜の哭き声が聞こえていて、空を見上げると、帰るべき惑星を失くした宇宙船が浮かんでいた。無人になった深夜のカーニバルでは、異世界への秘密の扉が開かれていた。夏は永遠に続くと思っていた。しかしふと気付くと僕たちは、いつのまにかただ枯れ草が広がるばかりの、「10月はたそがれの国」にいたのだ。

少年は大人になる事ややがて来る身近な死に怯え、年老いた者はかって自分も少年だった事を忘れて行く。

2007年に出版されたブラッドベリの「さよなら僕の夏」は、日本では1971年に出版された「たんぽぽのお酒」の続編だ(本国では55年ぶりの)。10代の頃の僕は、その頃翻訳されたブラッドベリの「火星年代記」や「刺青の男」、「太陽の黄金の林檎」「華氏四五一度」「十月はたそがれの国」「メランコリーの妙薬」「何かが道をやってくる」「ウは宇宙船のウ」「よろこびの機械」に夢中になった。

少年の頃のブラッドベリには、彼の大切な友人だった老人たちは過去へと遡る事のできるタイムマシーンだった。そして書物は、想像力の翼を持つ宇宙船だ。思い立てばいつでも、どこへでも好きな場所に行く事ができる。老人が言う。「すべて」を語るには10分必要だ、しかし「何か」を語るには一生かかる。

孤独と死と虚無とに隣り合わせているからこそ、生は輝く。少年は老人の、老人は少年の、男は女の、女は男の視点を持つ事もできる。「何か」に終わりはなく、過ぎ去った夏は戻らないが、また新しい夏が来る。そして誰もが、それぞれのタイムマシーンと宇宙船を持っている。好奇心と想像力の翼を失くさなければ、僕たちはまた新しい冒険へと旅立つことができるのだ。

かもめはとびながら歌をおぼえ、人は遊びながら年老いてゆく(寺山修司)。
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by nakagami2007 | 2009-04-21 15:42

セルジュ

店に映画「砂丘」のチラシがあった。アントニオーニのこの映画は日比谷の映画館で観た。ピンク・フロイドの曲と現実を爆破する幻想シーンが印象的だった。この作品の数年前に制作された「欲望」は渋谷の名画座で観たと思う。テニスコートで存在しないテニスボールを打ち合うシーンを思い出す。「欲望」に出演していたのが、21歳のジェーン・バーキンだった。ミニスカートが似合った10代のジェーンは「スインギング・ロンドン」の只中にいた。

その後すぐにジェーンはフランスに渡り、セルジュ・ゲンズブールと2度目の結婚をする事になる(セルジュは3度目)。セルジュが監督した二人の映画「ジュ・テーム・モワ・ノン・ブリュ」はセンセーショナルな反響を巻き起こしたが、残念ながらこの映画は未見だ。レンタル屋でみかけないから、雑誌などでの知識しかない。タイトルは忘れたが、セルジュの短編で「女子高の前でコートの前をはだけて裸をみせる初老の男」を自ら演じた映画は観た。

時折、どこかの教授などがスカートの中を覗いたり、触ったりして捕まったという記事を目にする。そこには欲望を隠した常識人の顔と、時折欲望が露出するもうひとつの顔があって、そのどちらも醜い。セルジュが女の尻を触ったところで問題にはならないだろう。多くの人が愛した彼は、そういう男なのだから。シニカルだが、せつない。死ぬといわれても酒と煙草を愛し、いい女とみれば、お互いの地位や立場など関係なく「やらせろよ」と言った。

二人の関係は10年と少しで終わったが、その後もセルジュはジェーンのために曲を作り続けた。

ジェーン・バーキンのベストアルバムを聴いていた。その中に1991年、セルジュ・ゲンズブールが死んで2ヶ月後に行われたライヴでの曲が入っている。「手ぎれ(俺がここを立ち去ることを、君に伝えるためにここにやって来た)」という曲だ。ジェーン・バーキンの悲しみが胸に沁みてくる。心が泣いている。
 
 あばよ、と言いに来た
 泣いたって、どうにもならないよ
 ヴェルレーヌが言ったとおりさ(注:秋の歌)
 あばよ、と言いに来た
 昔を思いだして、泣いてしまうかい
 時のせつなさに、息がつまり、
 青ざめるかい
 これっきりだ
 ちょっと残念だけど
 行ってしまうよ
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by nakagami2007 | 2009-04-17 19:51

麻雀放浪記

色川武大は泉鏡花賞を受賞した「怪しい来客簿」や直木賞受賞の「離婚」など、独特の味わいのある小説をいくつも書いている。しかし何と言っても、それ以前に阿佐田哲也名義で書かれた「麻雀放浪記」はピカレスクロマンの最高傑作であり、読者の現実にも影響を及ぼしかねない危険な小説だった。読んでいると血管をドクドクと血が流れ始め、喉がヒリヒリと灼けつく様に感じる。これはフィクションではあるが、阿佐田哲也が無頼な生き方をしていた頃の生活が基になっており、そんな現実こそ生きている実感があると思わせる小説だった。

その頃の私は麻雀の役もロクに知らず、点数を数えることもできなかった。それでも「麻雀放浪記」を読んだ後、その日暮らしの生活費を稼ぐために行った肉体労働の帰りに、誘われるまま麻雀を打った。その日の稼ぎは消え、さらに借金が残った。それから麻雀の入門書と戦術書を山のように買い込み、ひたすら読んだ。そしてその後、当時創刊された夕刊紙のアルバイトで当座をしのぐ事にした。仕事は楽で、うまくやればその頃でも月に20万ほど稼げた。そこは無頼派が集まるギャンブル会社だった。時間があけばチンチロリンが始まり、土曜はテレビの競馬中継に見入る。仕事が終われば麻雀になった。

点数計算や役作りを覚え、戦術書も何度も読んでいたので勇んで卓に座った。まったく勝てなかった。来る日も来る日も負け続けた。その頃は点ピンのウマが10,20のレートだったので、半荘が終わる30分位で箱テンになれば5000円の負けだ。稼ぎはすべて消え、借金のローンもできたが、その頃覚えた競馬にも助けられた。阿佐田哲也は「人の持つツキは平等にある」という。勝ち続ける事を恐れ、「9勝6敗がいい」と言っていた。人の人生は、子供の頃から貧しい家に育ち、めぐまれなくとも真面目に働き、それでも通り魔に殺されてしまうような理不尽ばかりがおこる。しかしギャンブルの前では「ツキは平等にある」と思えた。

それまでは人の捨て碑や自分の手碑ばかりが気になっていた。しかし問題はツキのありかだった。ツイてない時は誰でもわかる。ツキが自分に来たと感じた時、それが本物であるか、半ヅキの状態(手碑は良いが振り込む)であるかがわかればいいのだ。それからだんだんと負けないようになった。麻雀をし続けると刺激も減った。やがて東風戦のワレメ麻雀になった。1万5千点持ちの3万返し、碑山が割れた席があがっても、そこに振り込んでも点数は倍になり、点棒がなくなればそこで終了だ。レートは点ピンのままだが、ウマが20,30になり、東一局で箱テンになればそれが50になった。東一局にワレメの席にマンガン8000点を振り込めば倍の1万6千点払いになり、1万5千点の点棒がすべてなくなり終了になる。たった数分で8千円の負けだ。一発や裏ドラのご祝儀がつけば、それが更に大きくなった。

勝てるようになると、一晩で10数万も勝てた事もあった。そんな給料日のある日、怪しげな親父に雀荘に誘われた。そこではとりあえず慎重に様子をみる事にした。するとたった数巡でリーチがかかり、成す術もなく簡単に積もられてしまう。半荘清算なので、給料袋の金はどんどんと減って行く。なくなれば、それで終わりだ。イカサマをやっているようには見えなかったが、今のように全自動ではなく手積みだったので、必要な碑を自分の山に積み込み覚えておくような事は普通にある。金が残り少ないので、鳴いて積も順を変え、振り込まないように手碑を変化させた。とにかく無一文で帰るわけにはいかない。ひたすら打ち続けて、ようやく負け分を取り戻した。

負けなくなるにつれ、あの灼けつくような感覚が薄れて行った。麻雀を始めた頃、負け続けて朝の新宿東口の駅前に座り込み、駅から吐き出される通勤客を眺めながら「人間失格だな」と思い、中央線や山手線で眠っていた日々が遠くなった。ギャンブルの意味は負ける事、その負け方にこそあると思った。負けた分はギャンブルで取り戻せなくても、仕事や恋愛や他の事で返ってくればいい。吉田拓郎の「落陽」の詞のように、女や酒よりギャンブルははるかに生きている実感がある。ドストエフスキーもヘミングウェイもそうだ。賭け続け、負ける事によって、良い作品がうまれた。

麻雀も競馬もパチンコも勝ち続けていたある日、仕事をやめる事にした。給料袋とありったけの金を持って、東京競馬場に行った。土日の2日で、そのすべてが消えた。そうして何年か続いたギャンブルの日々は、あっけなく終わったのだった。
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by nakagami2007 | 2009-04-03 15:23