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絵描きという生き方

最近、毎月のように美術関連書を段ボール箱で持って来てくれるUサンは絵を描いている。若い頃は編集者をやっていたようだが、仕事をやめて絵一筋になった。70歳位になって、大量にある本の処分を始めたようだ。Uさんが「絵を描くなら、酒と珈琲と煙草と女をやってたらダメなんだよ」と言った。嗜好に時間を費やしている古い絵描き仲間達は脳もまったく働かず、何十年経っても同じ美術理論を振りかざし、代わり映えのしない作品を描き続けるだけだ。

そう言って、酒と珈琲と煙草が大好きな僕にもやめなと勧めた。「Uさん、僕は作家ではなく、貧乏な古本屋だよ。ずっと同じ事を言い続け、酒を飲み続けて死ぬんだろうな」僕は言った。

「画家は万能でなければ、賞賛に値しない」と言ったのは、ダ・ヴィンチだ。そんな天才が今の時代に生まれるとは思えない。それ以前に今、絵を描き続けている連中が後世に、この同時代に生きたムーブメントとして語られるかという事さえ心もとない。天才でない人間は、天才が他の事に費やす時間のすべてを絵に費やし、更に長く生きて描き続けるしか彼らに少しでも近づく道はない、とUさんは考えているようだった。生のエネルギーのすべては描くためにあるのだと。

絵画が商品価値を生み出すようになるのは、物質的余剰が生まれた近代だ。それ以前は、権力の象徴だった。美術工芸品は庶民に権力の大きさを、わかりやすく誇示するための道具でしかなかった。しかし、商品となった絵画は多様性を持ち、様々な付加価値がつけられ、莫大な利益を産み出す可能性を得た。売った者勝ちという事だ。二次流通に耐えられない品は、その時点でゴミになってしまう消耗品だ。

この店のお客にも画家は何人もいる。家庭を持った人たちは個展などは続けているが、いつかまた描く事に専念したいと思いながら、他の食い扶持を持つ事になる。若いうちは職人としての絵描きではなく、画家のような肩書きが魅力的にみえるらしい。作家性を持つという事は批評の荒波にのまれる事だ。どんなに最低最悪な評価でも、そこに批評の言葉が大量にあふれているようであれば可能性はある。無視は作家としての死を意味する。

しかしたいていの若い自称作家達は、自由気ままに生きている単なるボヘミアンだ。そう生きていられる事の幸福の方がずっと素晴らしい事だと誰だって思う。そういう生き方には辛辣な批評の言葉は返ってこない。酒を飲み、楽器を奏で、女を口説き、そして絵を描いて暮らせるなんて最高だ。それ以外にどんな言葉があるというのだ。いい絵ですね、って言うしかないじゃないか。

まだ店を始めた頃だったろうか、もうずいぶんと前の事になる。その頃、店によく来ていたAが17,8の頃に描いていたのが上の画像の絵だ。何人かの画家の影響がそのまま描かれていて面白い。表現するという事は、自分も表現したいと思う誰かの作品と出会ったからだ。それを実現するための一歩が模写だ。その画家にできて、その時点の自分にできない事がすぐにわかる。そして、できたら壊す。その道筋は古典から現代へと辿るのが普通だ。

Aは寝る間も惜しみ、描き続けているようだった。時々見せてくれる絵は変化を続け、様々な画家の作風を試みていた。疲れると店に来て、イマジネーションを大きく広げてくれる面白い本をたくさん買っていった。話をすると、その世界を形にするための、多くのアイディアが溢れてきていた。僕にはそれが、新しい内宇宙が創世されるビッグバンのようにみえた。楽しかった。

しかし数年後にAは実家の事情で東京を去り、別の道を進む事になってしまった。きっと今でもAは寸暇を惜しみ、絵筆を持っている事だろう。何十万、何百万もいるだろう日曜画家たちと同じように、遠くの森を、庭先の花を、空を、雲を眺め、描き続けているに違いない。しかし、そこにはあの時できかけていた宇宙はもうない。

ただ、そこには絵を描く事の幸福がある。その事と作家性を持つ事の違いの答えは、その人の生き方と、そこから生まれる作品の中にしかない。それは批評にさらされ、市場経済に踊らされ、どうしようもない自分と常に向き合い、滅茶苦茶に格好悪い道を行く覚悟を持つという事だ。その悲惨を、ちゃんと生きるという事だ。でなければ、そこに違いなどない。
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by nakagami2007 | 2009-08-05 15:02