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1969

17歳の夏、僕は数人の仲間と高校の屋上で紙ヒコーキを飛ばしていた。騒がしくなった中庭を見るとヘルメット姿の連中が机や椅子でバリケードをつくり、アジ演説が始まった。学校はロックアウトされ、その日から休校になった。大学では学生運動が最後の盛り上がりをみせて、大学入試が中止になったりした頃だ。僕はちょうどよい機会だと8ミリ映画を撮る事にした。それはゴダールのような映像の断片と文字を組み合わせたものだったが、フィルム代がなくなり、編集途中で挫折した。

その頃、デモにはノンセクトの一個人として、何度か参加した事がある。一個人だから、ヘルメットもゲバ棒も火炎瓶もなしだ。僕は皆が同じスタイルをとる事が恥ずかしく、その事で同級生たちに殴られたりした事もあった。丸の内のビル街を歩いているとビルの窓から無数の紙吹雪が舞い、歓声があがった。やがて機動隊との衝突が始まると、逃げ惑うヘルメット姿の連中がバラバラと横を通り過ぎていった。あたりの路上やビルの階段には、血を流した男たちや放水でズブ濡れの女たちが座り込んでいた。これは祭りだなと思った。祭りは終わってしまえば、喪失感だけが残る。そしてそれは毎年、同じ時期にやってくる祭りと違って、もう二度とない祭りだった。

歴史は為政者に都合良く書き換えられるものだ。それは個人史でも同じ事だ。同じ現場に100人がいれば、100通りの別の歴史が生まれる。視点を変えれば、ものの見方など180度変わってしまう。社会が、そして個人がもっている価値観は、その時々の特殊なものにすぎない。問題なのは絶対的な真実や正義があると思い込んでしまう、人が潜在的に持つ病いだ。祭りで社会は変わらない。しかし真実や正義があると思い込んでしまう人の心は簡単に同じ、とんでもない方向にむかってしまうものだ。

高校で自主授業が始まった。英語の教師が「僕だって受験の英語を教えていたって面白い訳がない。第一、僕は教師をやめてルンペンをやっていたとしても、面白く生きて行く自信がある」と言った。国語の授業では何をやろうという話になった。僕は思いつきで、「これをテクストにしよう」と読み終わったばかりの、大江健三郎の「性的人間」をだした。多様性を持った生物が生まれ始める原初の海のような、混沌とした世界をみたいと思ったのだ。それは失敗だった。ただ実存を生真面目に読み解こうとする退屈な時間になった。

小説のような事が実際にあったらどうだろう、と僕は電車に乗った。そこで、扉の横の手すりに持たれていた年上の女と知り合った。その人は学生運動の頃のジーンズにTシャツといった恰好とはまったく違って、ヒラヒラのワンピースのようなものを着ていた。その頃の僕には、性もやはり観念だった。原宿から外苑、千駄ヶ谷の方へと歩きながら朝まで話した。途中で警官の職質にあった。彼は僕のバッグを逆さにすると、バラバラと中の物をだした。そこにはマルクスはなく、バタイユがあった。

携帯電話も、一人暮らしでは固定電話もない頃だ。夜明けがきて、「またどこかで会えたらいいね」と別れた。それからずいぶんとたったある日、僕は山手線に乗っていた。隣の車両から大きく手を振りながら、こちらの車両へと走って来る彼女の姿があった。

翌年の卒業式は中止になったが、出席日数に満たない者がほとんどだったので、結局全員が卒業できる事になった。やっかいな連中はさっさと卒業させてしまった方がいいとう言う事になったのだろう。学校の教室よりも、上野毛の図書館の書庫にいた時間の方が長かった僕も卒業できる事になった。卒業後、受験のための内申書をとりに学校を訪ねた。そこにはもう制服はなく、カラフルなミニスカートなどがあった。制服の胸ポケットに煙草を入れていて、何度か思い切り殴られた事のある体育の教師に、「元気か」と声をかけられた。僕は、「一服しましょう」と煙草を差し出した。煙草のけむりが青い空へ消えていった。
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by nakagami2007 | 2010-08-17 15:35

夏の日

東京の夏は暑い。エアコンは大の苦手だが、店では使わざるを得ない。せめて休みの日くらいは外に行こうと散歩に出るのだが、この時期には死にそうになる。大人の散歩の友は発泡酒と水筒に入れてギンギンに冷やしておいた焼酎だが、これでますます脱水症状になる。アスファルトとコンクリートとエアコンの室外機だらけの町を歩くのは自殺行為だ。女はたいてい、夏が嫌いだ。夏は少年の日のためにある。過ぎ去ってしまえば、ただ少年の日を思い出すためだけにあるのだ。

初めて東京に来たのは、愛知県の豊田に住んでいた小5の夏だった。近所に住む知り合いの、仲の良かったずっと年上の兄妹が大学に入って、松戸にある親戚の家に下宿していた頃だ。「夏休みに遊びにおいで」と言われた。東京行きの急行列車にひとりで乗った。その頃は急行で10時間近くもかかっていたので、東京ははるかな遠い場所だった。

東京では東京タワーや後楽園、いろいろな場所を案内してもらった。そして浅草寺と六区、科学博物館や動物園のある浅草や上野周辺がすっかり気に入ってしまったのだ。松戸の家には僕と同学年の娘がいた。母親が「二人ではやく、お風呂に入ってしまいなさい」というので、ドキドキの夏だった。

それから3年後の中2の夏、僕は東京にいた。その春に世田谷に引っ越してきたのだ。自転車であちこち回っている内に、僕はそのあたりもすぐに気に入った。近所にある等々力渓谷、環八を越えた先の多摩川、上野毛の図書館、尾山台の貸本屋、自由が丘の古書店と名画座、田園調布の公園、遊園地で映画館もあった多摩川園と二子玉川園、路面電車の玉電と盛土をしただけの二子玉川園の駅、深夜に流星を観に行った砧緑地、どこも僕のお気に入りの場所だった。

そしてその夏、同級生の何人かが湘南でキャンプをする計画をたてた。自転車で海沿いを走る、その魅力的な計画を聞いて僕も参加する事に決めた。江の島の先のひと気のない海岸にテントを張った。僕は泳げなかったけど、素裸になって海に飛び込んだ。

その頃の高校は学校群制度で、行きたい高校を選ぶ事はできなかった。泳げなかった僕は、プールのない学校に行きたかった。その学区でプールのない高校はひとつしかなかったが、運良くそこに入る事ができた。入学後に親しくなったS君に、同級生の青山の自宅に行ってみないかと誘われた。青山通りを少し入った所にある洋館で、同級生の広い部屋に入るとさまざまな楽器が置いてあった。そのうち、ピアノとドラムスとウッドベースとギターでジャズの即興演奏が始まった。圧倒された。社宅暮らしとは別の世界があった。

しかし僕は青山なんかより、ピンク映画館に同伴喫茶、まだ手打ちだったパチンコ店や一杯飲み屋、妖しい店が並ぶ薄暗い渋谷センター街や百軒店が大好きだった。その頃知り合った文芸部の部長のM君と、学校のガリ版を使って詩集をつくり、新宿の地下通路で売ったりしていた。以前に書いたが、その15歳の夏に僕は自転車とヒッチハイクの旅にでたんだ。

初めて自転車を買ってもらったのは小2の頃だったと思う。愛知県の岡崎のはずれの、今では廃線になってしまった私鉄の駅前に住んでいた頃だ。僕は町の中心部にあった岡崎城まで自転車でいってみたくなった。その頃の脚力では思っていたよりもずっと遠かった。いつのまにか真っ暗になり、心細くなりながら灯りもない矢作川の川沿いを必死で自転車のペダルをこぎ続けた。やっと家にたどりついた頃には、何かあったのではと近所の人たちと大騒ぎになっていた。そんな風に、僕の少年の夏は始まった。

そして15歳の夏、自転車で北陸を回った後、ヒッチハイクで奈良から京都の方へと向かっていた。柳生街道、長谷寺、室生寺、浄瑠璃寺……、野宿をしながら歩ける所はとにかく歩いた。石仏をみつけると、対面しながら休んだ。疲れ果てていると、トラックが停まってくれた。20億光年の孤独な夜、無数の星の下で何かと語り合いながら、もう二度と来ない僕の少年の季節は過ぎ去っていった。
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by nakagami2007 | 2010-08-03 14:07