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特性のない男

店を移転する前の話なので、もう10年位たっただろうか。ある日、数冊の文学書を持った私と同年配くらいの男が現れた、それは特に珍しいものではなく、今では需要があるような品でもなかった。そう伝えると、その男が話しだした。長年勤めていた新刊の書店が廃業する事になり、住んでいた公営住宅の家賃も滞納で月末の退去を迫られていると言う。勤めていた書店は社会保障費を払っておらず、失業保険や年金のようなものもまったくないのだと。既に売れるような品はすべて売ってしまい、古ぼけた文学書だけがいくつか残っているようだった。「それで、何かあてはあるのですか」と500円玉を渡すと、頼れるような知り合いがいるわけでもなく、これでとりあえずラーメンでも買えると淋しそうに笑いながら帰っていた。

それから、何度か同じような品を持ってその男は顔をだした。売れるような品ではなかったが、そのたびに500円玉を渡して、何か良い方法はないものですかねえと同じ事を話した。いったんホームレスになってしまえば、そこから再起する事は困難で、普通の人間には過酷すぎる。実際に会った事はないが、この町にはよく知られた河川敷生活者がいる。夕暮れになると犬を散歩させながら近所の銭湯にやってくる。その後は飲み屋の店頭に犬をつないで、一杯やって帰るという何とも優雅な毎日という話だった。そういった生活力のある人は例外中の例外で、通常の社会生活を送ったとしてもうまくやっていけるのではないだろうか。

店を始めた頃からの客だったM君は、グループサウンズやその頃の時代の幻想から抜け出せず、仕事を辞めたりしている内に家賃が払えずホームレスになった。親父から勘当され、兄弟からも縁をきられだが、その頃はまだ母親が生きていた。身なりをきちんとするように家のものには内緒で洗濯をし、帰りにこっそりと小遣いを渡した。金が入るとM君はパチンコ屋に行き、大勝ちすれば好きだった時代の物を買ってしまう。そして金がなくなるとそれを売りにくるのだった。珍しい品も多く良い客だったが、パチンコのプロではずっと暮していけないだろうというと、負けた日は「多摩川の橋から飛び降りたいけど、簡単には死ねないものだねえ」と笑うばかりだった。

何度か姿をみせなくなったりしていたM君だがある日顔をだすと、父が死に、母が死に、今は誰もいなくなった廃屋のような家に寝泊まりしているといった。その頃にはもう、住む場所をなくして20年にもなっていたのだ。持ってきた品物をみて「良い物だけど、よく買えたね」というと、母の貯金を使い込んで買いためたという。そんな事もあって兄弟や親戚からは完全に縁をきられ、寝泊まりしていた家も借地で数ヶ月後には解体されるんだよといった。それから何度か売りにきていたのだが、解体がはじまったといっていたM君がパッタリと姿を見せなくなったのは数年前の事だ。

文学書の男が最後に顔をだしたのは、公営住宅の退去期限も迫った月末だった。「どうにかなりそうですか」と聞くと、府中に困窮した人を受け入れてくれる施設があり、とりあえずそこへいく事になったという。住む所と食う物がなければ先の事を考える事もできない。「よかつたですね」と言うと、「これが最後です。いい本ですよ」と2冊の本を渡された。愛読書だったらしいその2冊の事はよく覚えている。ムージルの「特性のない男」と、楜沢厚生の「<無人(ウーティス)>の誕生」という本だ。特性のない男、才能がないわけでもなく何かをしたいわけでもなく何もしない男、ウーティス、誰でもない者何者でもない者。何だかわかるような気がした。

買い取りますよと、餞別変わりのいくらかを渡した。「お元気で。ありがとうございました」というと、「そちらこそ、お元気で。お世話になりました」と店をでていった。その後はどうなったのかはわからない。そして私たちもまた、特性のない男なのだ。
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by nakagami2007 | 2014-08-19 17:43