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閉店の日

お向かいが店をやめた。古着を売ったり(元は古着屋だった)、店頭で菓子を売ったり、手づくりの内装もユニークな面白い飲み屋だった。またひとつシャッターが閉まったままの場所が増えた。どの町へ行っても必ずといっていいほどあった古本屋も、ますます減った。それとともに散歩の愉しみも半減した。

この国の工業化が進むにつれ、地方から都会へと集団就職などで大量の労働力が流れていった。それでも人口の半分が農業や漁業、自営業者だったのはそんなに昔の話ではない(今は1割程度だ)。今では自営業は大きなリスクばかりが目立ち、ほとんどの者が進学し、少しでも安定した企業への就職を求めるようになった。しかし雇用の需要が増え続ける事はないので、人は不安定になる。

精神も豊かだった社会の余剰は、社会性をもてない者たちを支える事もできた。芸術や音楽、演劇などに何かを求めるしかない無産者を受け入れる余力の風流もたくさんあったのだ。古本屋にも風流で酔狂な人たちが多く来た。店を育てるのは、そんなお客だ。物の価値は需要と供給の数字だけで決まるわけではない。

500円と値付けられた本をみて、「この本は私には2000円の価値がある。今は1000円しか持たないが、これだけは置いて行く。安売りなどしないでくれ。」というような人たちが多くいたのだ。今では本も単なる消耗品だ。店を覗いて、ブックオフに売れるような新しい本がないと知ると、万引するものもないと怪訝な顔で店をでてゆく者が増えた。

出版もまたリスクを背負う余裕がなくなった。アマゾンの和書で「うつ」と検索すると12,383件がヒットする(新装や再版などのダブりも多いが)。少なくともこういった内容の本は比較的採算はとれるので、類書ばかりの出版点数が増えていく。これらは古本屋で扱う本とは別種だ。

古本屋はどの町にもあった書物の森へと迷い込む小さな入口だった。この店は電球を使っている。近いうちに流行のエコで、電球もなくなる。どの店もゆらぎもはかなさもない明るい場所になっていくのだろう。リサイクルの一商品として残る以外は、電球の灯りがポツリポツリとひとつずつ消えていくように古本屋も消えていくだろう。

なくなっていくものを、見届けることができるのも本望だ。今でも「この駅に降りて良かった。こういう店、まだあるんですね」と何冊かの本を買っていってくれるお客はゼロではない。だから続けてこられた。書物の森への入口はいつのまにかひっそりと静かに閉ざされていく。それでいいのだと思う。

その時はこのサイトもひっそりと閉じようと思う。好奇心を持ち続ける事以外に他に興味はない。そんな場所をネット上でもつくりたかったが、うまくいかなかった。ネットでこの商売を続ける事はあったとしても、それは単なるビジネスで別物だ。扱う物も違うし、ビジネスのためだけに使う時間があればいい。それ以外の時間は個人的な書物の庭に暮らせればいいのだと思っている。
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by nakagami2007 | 2010-05-10 16:45
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