数年前までは、店のあるこのあたりにも米軍のハウスがけっこうあった。制約がほとんどなく自由に使えるので、画家や版画家や写真家などが作業場兼用にしていた。今は横田の方に行ってもほとんどない。それとともに青梅線から面白い人たちがいなくなり、活気もなくなった。ハウス、僕にも懐かしい場所だ。
一人暮らしを始める前は世田谷に住んでいたので、中央線の三鷹より先には行った事がなかった。中央線で安アパートを探しているうちに立川にでた。駅近くの不動産屋にいた若い女に「とにかく安いアパートはないですか」ときいた。すると、「ありますよ」といきなり車に乗せられたのだ。そこは青梅線拝島駅の西武線側で、聞いた事もない駅だった。その頃は今のようなマンションもなく店もなく、本当にまったく何もない寂しい所だった。女は満足気な表情で「安いでしょ」と勧めた。その後、飯なんかもごちそうになっちゃったし、まあいいかと結局そこに住む事に決めた。 今でもたいしてやる気があるわけではないが、20代の半ば頃は本当に何もやる気がしなかった。今でも欲しいものなどほとんどないが、物欲がまったくなかった。テレビも持っていなかった。部屋には本しかなかった。食う事への欲求もないので、小麦粉を溶いて焼き、ソースか醤油をかけて食べた。米よりもずいぶんと安かった麦飯にマヨネーズと醤油をかけて食べた。キャベツは近所の畑の隅に捨ててあるので、拾った。酒を持って訪ねてくる誰かがいなければ、飲む事もなかった。家賃は稼ぐしかないが、それ以上は働きたくもなかった。消費社会では完全な落ちこぼれだ。 家賃を稼ぐために青梅の工場に行ってた時だ。拝島駅の反対側に住んでいるというM君と知り合った。お互いにやる気がないので、深夜に話などをし、遅刻をくり返している内に首になった。M君の方が何ヶ月かの家賃の滞納もあって、厳しい状況だった。そこで、夜逃げをして、とりあえずはこっちのアパートに引っ越そう、という事になった。新聞販売店でリヤカーを借り、深夜、国道16号にある拝島陸橋を何度も何度も往復した。やる気のない二人、僕は日がな一日本を読んで暮らし、M君はギターを弾き繊細な詩と曲を紡いで暮らした。 しかし、他にやる事もなく、いつも同じ狭い部屋にいるばかりで、だんだんと息苦しくなった。そこで福生にあるジャパマーハイツのハウスを借りようという事になった。僕は共同生活を続けていく自信がなかったし、一人になれる部屋を残しておきたかった。そこで後に古本屋の先輩になる事にもなる友人のS君を誘う事にした。S君も家賃を滞納するような事もあり、それなら個室もある共同生活もいいんじゃないかと思ったようだった。 S君は将来やりたい事に役立つような仕事を見つけては働きに行った。しかしM君と僕は相変わらずだった。アパートは横田基地の立川寄りの一番端のあたりにあり、ハウスは逆の端の瑞穂の近くあたりにあるので、手頃な散歩コースになった。帰るのが面倒になると泊まり、一人になりたくなると帰って、本を読んだ。 この頃が人生最大のモテ期だったように思う。歩いていて、雨に濡れている人に傘を差し出すと「部屋に寄りませんか」と言われた。電車に乗って、読書の邪魔をする男の動きを排除すると「助けてくれてありがとう。お茶に行きませんか」と声をかけられた、そんな事が、よくあった。しかし他の欲求と同じように、性欲もあまりなかったので、まったく無駄なモテ期だった。 ジャパマーに向う途中、八高線の東福生あたりにあったハウス群がサンハウスだ。ある日、ハウスの窓辺に座り、手をこっちに向け、おいでおいでをする女がいた。またそんな誘いなのかと近づくと、いきなり「はい、これっ」と子犬を渡された。呆然としていると、「飼ってね」と言う。「あっ、どうも」と言って、そのまま持って帰ってきた。それが上の写真の犬だ。 ハウスには、散歩の途中で拾った白い猫もいた。この2匹は将来、家出をする事になる。あまりにも悲惨な食生活に耐えられなかったのだろう。あちこち探したが、結局帰ってこなかった。きっともっとマシな居場所をみつけたに違いない。その頃の僕はただ犬と遊び、猫と眠り、他には何もしたくなかった。 携帯電話が普及するのは、ずーっと先の話だ。その頃は実家や仕事場に電話はあっても、一人暮らしで持っている奴はいなかった。会うには直接訪ねるしかない。留守ならば無駄足になる。誰かと会う事もけっこう大変だった。その分、孤独はずっと身近で、その孤独が時には良い友人にもなってくれたのだ。 しばらくハウスに行かない日が続くと、部屋のドアに「カレーつくった」というメモがあったりした。ハウスへの友人の来訪があった時には、「すぐこい」という電報がきた。 家賃を稼ぐための交通費が必要になると質屋にいった。ただで貰ったヘッドホンやジャケット、何かを持って行きさえすれば千円を貸してくれた。もちろん、何の価値もないものなので、金ができたらちゃんと出しに行くという信用貸しだ。困っている人を見捨ててしまうような奴は、どこにもいなかった。 その後、通勤に不便という事でS君が引っ越す事になった。そうなるとハウスの家賃を払い続ける事は困難だ。ハウスが段々と壊され、建て売り住宅が建ち始めた頃だ。いい潮時だと思った。何もしない生活も充分味わえたし、何かを買うために仕事をする気は相変わらずなかったが、肉体労働の現場や工場や事務所、いろんな業種の店舗など、様々な労働の現場を体験しておく事も悪くはないと思うようになってきていた。 そして、僕たちはそれぞれの場所へと旅立ったのだ。
by nakagami2007
| 2009-06-22 21:12
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