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土曜の朝、久しぶりにMXテレビの「立川談志・野末陳平のいいたい放談」を見ていた。たまに見る度に「病気話」がでるのだが、談志は鬱気味という。テレビ番組などでは噪状態なのだが、一人になると急速に鬱がきて何もやる気が起きなくなる。死にたくなる。それは検査で「糖尿病での酒の制限」などをいわれるうちに膨らんだ。陳平や毒蝮は「だったら、検査などしなけりゃいいじゃねえか」と言った。
自営業者には毎年無料検診の案内が来るのだが、行ったことはない。言われる事は「酒と煙草の量を減らす」に決まっている。酒瓶に目盛りを付け、あと1センチなどと飲む酒が体に良いわけがない。楽しい酒ならば翌日に残る事もないが、そうでなければ同じ量を飲んでいてもダメージが重なっていく。今でも毎日飲んでいるのだが、かって半年位だったか禁酒をした事があった。その頃突然、鬱がやってきたのだ。 深酒をしてしまった翌日、耳鳴りがとまらない。痛みが我慢できずに行った歯医者以外には、病院というものにはほとんど行ったことがなかった。しかし、気になって仕方がないので近所の耳鼻科にいってみた。大袈裟な器械で検査をすると「確かに耳鳴りはあるが、特に治療法はない」と言われた。その夜、めまいもするので救急病院にもいってみた。線上を歩かされたのだが、それなりにまっすぐ歩けているので「緊急の事態ではない」と言われた。それから耳鳴りがとまらなくなった。たまにめまいもする。よく寝られなくなって、そのうちに鬱になった。 寝不足が引き金になったのだろうが、40歳になる頃で体調もよくなかった。右肩を上げると激痛がある40肩は何ヶ月も続いていた。慢性の腰痛も悪化して、曲がったまま伸ばせない日もあった。太腿に神経痛のような痛みがでて、やっと眠ってもすぐに起こされたりもした。体調の悪さが胃にもきていた。 30歳位から急速に減少する男性ホルモンの影響で、更年期障害による鬱が起こり始める頃でもあるらしかった。店の売り上げも毎年落ち込んで、そろそろ廃業する同業者もでてきた頃だ。赤字の補填にも苦労していた。いろんな要因が重なっていたのだろう。何もやる気が起きない。本屋に入って本を開いても、ハッと気付くとそのままの状態でいて活字が追えない。テレビを見ていても、番組の内容が頭に入ってこない。手が震えたり、信号ではなく遠くをみていたりするので、車の運転も怖くなった。店が開けられないので、開店前にウイスキーをチビリチビリとやった。じっとしていられず、店の前をうろうろしていた。 様子が変な事に気付いて話しかけてきた客が何人もいた。こちらはまったく気付かずにいたのだが、同じように鬱になった事がある、あるいは今でもそうであるお客が驚く程いたのだ。 隣町のクリニックを教えてもらい、行ってみる事にした。そこで安定剤と睡眠薬を処方してもらった。耳を調べた方がいいと国立病院を紹介されたが、長時間待たされたあげく問診で血流をよくする薬をくれただけだった。耳鳴りはあきらめる事にした。そういえば耳のおかげで、若い頃から気圧の変化する新幹線やエレベーターは苦手だった。禁煙なのでどうでもいいいが、飛行機には死ぬまで乗る事はないだろう。クリニックの若い女医は「当面、お酒はやめましょう」と言った。その頃飲む酒はまったく楽しくなかった。その日からやめた。そしてクリニックに行く度に女医は、「もう大丈夫」と言ってくれるのだった。 店には今まではめったに来なかった客が、しょっちゅう顔をだしてくれた。それだけで気が紛れた。悩み多い年ごろの者にはこちらが「よしよし、大丈夫、大丈夫」と言った。「大丈夫、大丈夫」と同じ言葉が返ってきた。 そして本当に大丈夫になった。店の前の草取りをしてみた。楽しかった。遠くまでとりに行き、花の種を蒔いた。芽がでると、眺めながらの道路の清掃も楽しくなった。休日に散歩をすると何でもない光景が楽しく、どこまでも歩けた。今なら美味い酒が飲めると思った。それから御礼がてら最後にクリニックに行く事にした。するともう、その女医はいなかった。待合室の顔見知りが「本人が鬱になったらしい」と言った。鬱は誰にでも突然やってくる可能性のある、やっかいな病気である。しかしなった事のない人からみれば病気にはみえず、ただの怠け癖としか思えない。時々思い出す、あの波のように押し寄せてくるどうにもならない嫌な気分はうまく説明ができないのだ。 生活音も耳に戻った。子供の騒ぐ音も、老人の一晩中せきこむ音も、終わらない犬の鳴き声も、発情期の野良猫の声も皆、生きている証だ。体調の悪さも、慣れてくると気にならなくなった。それから休む事もなく店を開けている。段ボールを持って何度も何度も階段を昇り降りする事もできる。ずっとしゃがんで草取りもできる。休日は遠くまで、歩いていけるのだ。 *調教師の吉永正人が亡くなった。騎手の頃は大逃げや最後方から追い込む大胆な騎乗法で人気があった。それは派手なパフォーマンスというのではなく、そうせざるをえないように見えた。本人の印象も地味で朴訥としたものだった。寺山修司は「人間嫌いの吉永」と書いた。戦績も地味だったが、引退も近づいてきた頃にミスターシービーと出会った。ミスターシービーは一頭だけポツンと最後方をいくレースでデビューから連勝していた。「人嫌いの人」と「馬嫌いの馬」の孤独な魂の幸運な出会いを夢想したのは、死期が近づいていた寺山修司ばかりではなかったろう。そして日本ダービーの日、ミスターシービーを観るために東京競馬場のスタンドにいった。彼らを応援していた寺山修司は皐月賞の後、ダービーを観る事なく逝ってしまっていた。ダービーでもいつものように最後方を走っていたミスターシービーが先頭でゴールを通過した。その時、音が消えた。ふと横をみると、隣の男がボロボロと泣いていた。「寺山修司も一緒に乗っていたなあ」とつぶやきながら。 '06.9.13 ■
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by nakagami2007
| 2006-09-13 14:22
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