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Tさんの酒、その後

「善と悪の区別がつくのは、人と犬だけだ」と皮肉に書いたのは、猫好きのバロウズだ。街へ出れば、ひとりよがりの生き物が、ひとりよがりの生き物を連れて歩いている。人は孤独なのだ。

人には孤独と反抗の時間が必要だ。一人暮らしが思考する力をつくり、反抗期が戦う心をつくる。それを持たなければ、人の顔色ばかりをうかがい、虚勢を張るだけの人間になる。情報を簡単に共有できる社会では自己肯定と感謝の大安売りだ。しかし思考を持たない感情は、一瞬で憎悪にも変わってしまう。

神に形而上的反抗を続ける、その事に意味を求めたカミュは、永遠の青春の輝きを得た。それは表現のひとつの勝利だ。
それに対して、ありもしない神への反抗が飢えた人たちに何ができるのか、文学や哲学は世界を変えられるかと反論したのがサルトルだ。

答はない。しかしこのバーチャルな世界には答があふれている。その根底にあるのは、アイデンティティの喪失への恐怖ばかりだ。世界-内-存在。その世界のあらゆる場所で、さまざまな魂が、単純な二元論を求めている。いったい人は何に怯えているのだろう。

M美のT君が学園祭で絵の展示とおかまバーの模擬店をやるというので、でかけてみた。そこでは限られた時間の、限られた場所でしか酒を飲む事ができない。そこで時間まで隣にあるT大に行く事にした。

そこには七輪でホルモンなどを焼きながら座り込み、生ビールや焼酎を飲んでいる、のんびりとした光景があった。心地よく飲む事ができた。M美に戻ると、年齢のいった者にも「規則ですから」と身分証の提示を求められた。そしてその場所には酒を飲んで盛り上がっている連中がいるわけでもなく、ただ寒い風が吹き抜けているだけだった。
今の、日本人の言う自由とは、自己責任とは、安全な社会制度とは何なのだろう。

少し体調が戻った入院中のKが、久しぶりに帰って来たので飲み、話した。

夜がくると不安になるKを、花の世話をしているY君とTさんの弟子になったS君が、阿佐ヶ谷のバーに連れて行った。Y君の兄がやっている店だ。今では当初と意味合いの変わってしまったKへのおすすめ動画を見ながら、彼らは騒いでいた。その店の主な客層である男の気をひく事だけが興味の気どった女たちや、それが目当ての阿呆男たちはひいた。Y君の兄は「俺の店だ。つぶしたってかまわないから、好きにしろ。」と言った(その後店は、阿佐ヶ谷らしい面白い客層に変わったという話だが)。

Tさんは死んでしまったけれど、Kの周りには病院で読書仲間になった生意気な中学生がいる。体調のよい休日には、Kの行きたい場所に車で連れて行ってくれるM君もいい奴だ。
Kに食べさせようと、七輪で秋刀魚を焼いて病院から顰蹙をかったY君、戦場から帰ると家族が解散していたTさんが旅した場所、携帯電話を置きカメラを持って遠野の山で野宿をしたS君。彼らは髪の抜けるKをみて、頭を剃ってしまった。ゴダールの「はなればなれに」のようだ。みんな、やるじゃん。だけど。

K、感謝なんかするな。誰もが、君のために動いている訳じゃない。君が持つ多くの知識を表現する事を、なぜ君は長い間ずっとためらっていたのだろう。それは誰かに、彼に、どう思われるか、そればかりを気にしていたからだ。Tさんと話さなければ、今もそうだったかもしれない。そしてその君が、皆の何かを変えたんだ。グズグズしていたって何も始まらない。

後のことなんか知っちゃいない。結果ばかりを気にし、人の顔色をうかがう奴を軽蔑しろ。そうでなければ、自分のダメさかげんもまた、きちんと知る事なんか永遠にできないのだから。そして、それぞれがそれぞれの事を、いつか思うだけだ。あいつがいてくれてよかったと。
# by nakagami2007 | 2009-11-06 16:15

Tさんの酒

入院中のKが酒を持って病院を脱走して来た。Tさんが買っておいた酒だという。入院したKは、末期の肺がんで長期入院をしているTさんと仲良くなった。気分の良い日二人で、非常階段に隠れて酒を飲んだ。煙草を吸った。一緒にこのブログを読んでいて、Tさんは「こいつに言いたい事がある。一緒に脱走して飲もう」と秘かに病院を抜け出して、酒屋に行った。しかしそれからすぐに体調が悪化し、死んでしまったのだ。

Kは体調の良い日があると、ずっと住んでいるこの町に帰って来る。顔を合わせると僕は、触れてはいけない事があるような気がして、いつも言葉を選んでいた。近代人が持つ陥穽に、僕たちもまたいつのまにか同じように落ち込んでいた。話してはいけない禁忌などあるわけがない。そうでないのなら話す必要もない。

Kは病院にある身近な死について話すようになった。死んでしまった彼女をずっと思い続けながら、病院の花壇の世話をしている青年、花火大会の夜、Kが子供の頃の浴衣を着せてあげて3日後に死んだ少女が残した似顔絵、そこにはいろいろな形の死があった。ひとりの例外もなくいつか誰にでも訪れる死、生まれた時から誰もが持つ事になる余命について、何度も話した。

小学生の頃、僕には死が最大の恐怖だった。その事を考えると、他の日々の出来事など何もかもがどうでもいい事のように思えた。この宇宙は無から始まり、無へと還ってゆく。考え続けていると、胸の奥に空虚な大きな穴がポッカリと広がっていた。どうしようもない気分に陥った。その穴を埋めるには、虚無自体に意味をみつけるしかない。そう思った。死ぬその時まで、人の死はどこまでいっても観念でしかないのだから。

死んだTさんはカメラマンだった。病院によく顔を出していたKの友人のS君も、Tさんの良い話し相手になった。Tさんは長い間手にすることのなかったカメラをまた持った。短い間だったが、S君が孤高に生きたTさんの最初で最後の写真の弟子になっていた。

Tさん、僕も話したかった。Tさんが戦場で見た他人の死、どうしてもシャッターをきる事ができなかったその死顔、そしてそう遠くはなく来るだろう自身の死について。軽々しく話すような事ではないと、人の心に踏み込むような事はするなと、やっかいな話は忌み嫌われるようになった。そこから逃げるばかりで、当り障りのない言葉しか返ってこないのが今だ。

Tさんは、僕になら何を言っても大丈夫だと思ったのだろう。僕も逆にそう思う。戦場に生き、家族と別れ、病院で一人暮らしをしていたTさんが背負い、考え続け、見つけた答が何かはわからない。そして僕にも答はある。その答え合わせをする事には意味があるとは思えない。ただ言いたい事を言い合いたかった。使う事を我慢していた言葉たち、誰にも言えなかった言葉たちを、僕たちの身体から解放させたかった。

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上の画像は10年位前、店の流しで写真を焼いていた頃のものだ。そこには10年前に植えた花、前の店、そしてその頃の僕がいる。今は、花が咲いていた場所には草が生い茂り、前の店があった場所は駐車場になっている。僕は…、10年後の今日もこうして生きている。やがていつか死は確実に訪れるが、明日の事は誰にもわからない。

漫画を描いているH君が顔をだした。H君はほんの一時期だが、精神を病んでいた事がある。中島らもの「いいんだぜ」という曲を聴きながら、H君はその頃の話をしていた。自然って何なんだ。普通って何なんだ。そんなものは人のどこにもありはしない。つまらない言葉に縛られるな。きちがいだっていいんだぜ、H君はそう言いながら友人の待つ飲み屋へ向った。僕は「もちろんOKだよ」と手を振った。
# by nakagami2007 | 2009-09-01 15:17

絵描きという生き方

最近、毎月のように美術関連書を段ボール箱で持って来てくれるUサンは絵を描いている。若い頃は編集者をやっていたようだが、仕事をやめて絵一筋になった。70歳位になって、大量にある本の処分を始めたようだ。Uさんが「絵を描くなら、酒と珈琲と煙草と女をやってたらダメなんだよ」と言った。嗜好に時間を費やしている古い絵描き仲間達は脳もまったく働かず、何十年経っても同じ美術理論を振りかざし、代わり映えのしない作品を描き続けるだけだ。

そう言って、酒と珈琲と煙草が大好きな僕にもやめなと勧めた。「Uさん、僕は作家ではなく、貧乏な古本屋だよ。ずっと同じ事を言い続け、酒を飲み続けて死ぬんだろうな」僕は言った。

「画家は万能でなければ、賞賛に値しない」と言ったのは、ダ・ヴィンチだ。そんな天才が今の時代に生まれるとは思えない。それ以前に今、絵を描き続けている連中が後世に、この同時代に生きたムーブメントとして語られるかという事さえ心もとない。天才でない人間は、天才が他の事に費やす時間のすべてを絵に費やし、更に長く生きて描き続けるしか彼らに少しでも近づく道はない、とUさんは考えているようだった。生のエネルギーのすべては描くためにあるのだと。

絵画が商品価値を生み出すようになるのは、物質的余剰が生まれた近代だ。それ以前は、権力の象徴だった。美術工芸品は庶民に権力の大きさを、わかりやすく誇示するための道具でしかなかった。しかし、商品となった絵画は多様性を持ち、様々な付加価値がつけられ、莫大な利益を産み出す可能性を得た。売った者勝ちという事だ。二次流通に耐えられない品は、その時点でゴミになってしまう消耗品だ。

この店のお客にも画家は何人もいる。家庭を持った人たちは個展などは続けているが、いつかまた描く事に専念したいと思いながら、他の食い扶持を持つ事になる。若いうちは職人としての絵描きではなく、画家のような肩書きが魅力的にみえるらしい。作家性を持つという事は批評の荒波にのまれる事だ。どんなに最低最悪な評価でも、そこに批評の言葉が大量にあふれているようであれば可能性はある。無視は作家としての死を意味する。

しかしたいていの若い自称作家達は、自由気ままに生きている単なるボヘミアンだ。そう生きていられる事の幸福の方がずっと素晴らしい事だと誰だって思う。そういう生き方には辛辣な批評の言葉は返ってこない。酒を飲み、楽器を奏で、女を口説き、そして絵を描いて暮らせるなんて最高だ。それ以外にどんな言葉があるというのだ。いい絵ですね、って言うしかないじゃないか。

まだ店を始めた頃だったろうか、もうずいぶんと前の事になる。その頃、店によく来ていたAが17,8の頃に描いていたのが上の画像の絵だ。何人かの画家の影響がそのまま描かれていて面白い。表現するという事は、自分も表現したいと思う誰かの作品と出会ったからだ。それを実現するための一歩が模写だ。その画家にできて、その時点の自分にできない事がすぐにわかる。そして、できたら壊す。その道筋は古典から現代へと辿るのが普通だ。

Aは寝る間も惜しみ、描き続けているようだった。時々見せてくれる絵は変化を続け、様々な画家の作風を試みていた。疲れると店に来て、イマジネーションを大きく広げてくれる面白い本をたくさん買っていった。話をすると、その世界を形にするための、多くのアイディアが溢れてきていた。僕にはそれが、新しい内宇宙が創世されるビッグバンのようにみえた。楽しかった。

しかし数年後にAは実家の事情で東京を去り、別の道を進む事になってしまった。きっと今でもAは寸暇を惜しみ、絵筆を持っている事だろう。何十万、何百万もいるだろう日曜画家たちと同じように、遠くの森を、庭先の花を、空を、雲を眺め、描き続けているに違いない。しかし、そこにはあの時できかけていた宇宙はもうない。

ただ、そこには絵を描く事の幸福がある。その事と作家性を持つ事の違いの答えは、その人の生き方と、そこから生まれる作品の中にしかない。それは批評にさらされ、市場経済に踊らされ、どうしようもない自分と常に向き合い、滅茶苦茶に格好悪い道を行く覚悟を持つという事だ。その悲惨を、ちゃんと生きるという事だ。でなければ、そこに違いなどない。
# by nakagami2007 | 2009-08-05 15:02

牧野邦夫

牧野邦夫という画家がいた。大正14年(1928年)に生まれて、1986年に亡くなっている。レンブラントや岸田劉生の影響を受けたらしい細密描写が特徴だ。作品には自画像と夫人の裸像がよくでてくる。独特の雰囲気があり、細密なのだが背景の日本的な空間がよじれていたりする。1970年の頃の幻視者たちと通じるところがある。

それらの絵をみていると、暗黒舞踏の土方巽や澁澤龍彦、つげ義春を思い出したりする。その頃の時代性が濃密にただよっていて、それが一目見て彼の作品だとわかる独自のオリジナリティを生み出している。今でもどの程度に知られているのかはわからないが、その時代を生きた彼の幸運を感じる事ができる。

元々、人の創りだすものにオリジナリティなどない。すべての表現はこの世の事物の模倣だ。模写や模倣、あらゆる技術を修得し繰り返す事により、独自の世界にたどりつく幸運な人たちがいる。若いという事は素晴らしい事だ。どのジャンルでも、現代から古典まであっという間に膨大な知識を吸収する事ができる。どんどんと変わっていく。年をとるごとに新しい知識の吸収力は減り、過去の知識はすっかり忘れて行ってしまう。

10代の頃の感性は、それだけで輝いている。膨大な知識は脳内を自由に行き来し、斬新な絵や言葉や旋律、思いもつかないような発想がうまれてきたりする。しかしそれらは急速に失われて行くのが常だ。社会性を持った時点でまったく消えてしまったりする。自分のできる範囲の事を繰り返しているうちに疲弊する。過去の自分を超えられない。それを超えるには他よりも多くの知識と技術を身に付けるしかない。

M大のTが、K大のKを連れて来たので、一杯やった。Kとは半年ぶりだ。

人は一冊の本だ。百万人いれば百万通りの解釈がある。人の解釈は自由だ。そしてその解釈は日々変わる。自分がみえているものと人のみえているものは、まったく違っていて当たり前だ。その解釈に惑わされたり、おびえたりする事はない。K君、僕らは最低で、ろくでなしのどうしようもない人間だよ。そこから逃げても仕方のない事だ。大体、自分で自分の事を作家だとか画家だとか音楽家なんて言ってる奴は頭が腐ってる。

古本屋をやっていると、誰にでもわかりやすいベストセラー本にはまったく興味がなくなってしまう。それらはあっという間に店頭で100円均一で売られる事になり、記憶から消えて行くだけだ。人も同じだ。破壊と創造、今日得たものを明日は壊して行くうちに、自分のできる事しかしてこなかった自分を超えられる。常識の壁を壊す事ができる。バカにもなれないバカが多すぎるよ。
# by nakagami2007 | 2009-07-20 16:34

米軍ハウスの頃

数年前までは、店のあるこのあたりにも米軍のハウスがけっこうあった。制約がほとんどなく自由に使えるので、画家や版画家や写真家などが作業場兼用にしていた。今は横田の方に行ってもほとんどない。それとともに青梅線から面白い人たちがいなくなり、活気もなくなった。ハウス、僕にも懐かしい場所だ。

一人暮らしを始める前は世田谷に住んでいたので、中央線の三鷹より先には行った事がなかった。中央線で安アパートを探しているうちに立川にでた。駅近くの不動産屋にいた若い女に「とにかく安いアパートはないですか」ときいた。すると、「ありますよ」といきなり車に乗せられたのだ。そこは青梅線拝島駅の西武線側で、聞いた事もない駅だった。その頃は今のようなマンションもなく店もなく、本当にまったく何もない寂しい所だった。女は満足気な表情で「安いでしょ」と勧めた。その後、飯なんかもごちそうになっちゃったし、まあいいかと結局そこに住む事に決めた。

今でもたいしてやる気があるわけではないが、20代の半ば頃は本当に何もやる気がしなかった。今でも欲しいものなどほとんどないが、物欲がまったくなかった。テレビも持っていなかった。部屋には本しかなかった。食う事への欲求もないので、小麦粉を溶いて焼き、ソースか醤油をかけて食べた。米よりもずいぶんと安かった麦飯にマヨネーズと醤油をかけて食べた。キャベツは近所の畑の隅に捨ててあるので、拾った。酒を持って訪ねてくる誰かがいなければ、飲む事もなかった。家賃は稼ぐしかないが、それ以上は働きたくもなかった。消費社会では完全な落ちこぼれだ。

家賃を稼ぐために青梅の工場に行ってた時だ。拝島駅の反対側に住んでいるというM君と知り合った。お互いにやる気がないので、深夜に話などをし、遅刻をくり返している内に首になった。M君の方が何ヶ月かの家賃の滞納もあって、厳しい状況だった。そこで、夜逃げをして、とりあえずはこっちのアパートに引っ越そう、という事になった。新聞販売店でリヤカーを借り、深夜、国道16号にある拝島陸橋を何度も何度も往復した。やる気のない二人、僕は日がな一日本を読んで暮らし、M君はギターを弾き繊細な詩と曲を紡いで暮らした。

しかし、他にやる事もなく、いつも同じ狭い部屋にいるばかりで、だんだんと息苦しくなった。そこで福生にあるジャパマーハイツのハウスを借りようという事になった。僕は共同生活を続けていく自信がなかったし、一人になれる部屋を残しておきたかった。そこで後に古本屋の先輩になる事にもなる友人のS君を誘う事にした。S君も家賃を滞納するような事もあり、それなら個室もある共同生活もいいんじゃないかと思ったようだった。

S君は将来やりたい事に役立つような仕事を見つけては働きに行った。しかしM君と僕は相変わらずだった。アパートは横田基地の立川寄りの一番端のあたりにあり、ハウスは逆の端の瑞穂の近くあたりにあるので、手頃な散歩コースになった。帰るのが面倒になると泊まり、一人になりたくなると帰って、本を読んだ。
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この頃が人生最大のモテ期だったように思う。歩いていて、雨に濡れている人に傘を差し出すと「部屋に寄りませんか」と言われた。電車に乗って、読書の邪魔をする男の動きを排除すると「助けてくれてありがとう。お茶に行きませんか」と声をかけられた、そんな事が、よくあった。しかし他の欲求と同じように、性欲もあまりなかったので、まったく無駄なモテ期だった。

ジャパマーに向う途中、八高線の東福生あたりにあったハウス群がサンハウスだ。ある日、ハウスの窓辺に座り、手をこっちに向け、おいでおいでをする女がいた。またそんな誘いなのかと近づくと、いきなり「はい、これっ」と子犬を渡された。呆然としていると、「飼ってね」と言う。「あっ、どうも」と言って、そのまま持って帰ってきた。それが上の写真の犬だ。

ハウスには、散歩の途中で拾った白い猫もいた。この2匹は将来、家出をする事になる。あまりにも悲惨な食生活に耐えられなかったのだろう。あちこち探したが、結局帰ってこなかった。きっともっとマシな居場所をみつけたに違いない。その頃の僕はただ犬と遊び、猫と眠り、他には何もしたくなかった。

携帯電話が普及するのは、ずーっと先の話だ。その頃は実家や仕事場に電話はあっても、一人暮らしで持っている奴はいなかった。会うには直接訪ねるしかない。留守ならば無駄足になる。誰かと会う事もけっこう大変だった。その分、孤独はずっと身近で、その孤独が時には良い友人にもなってくれたのだ。
しばらくハウスに行かない日が続くと、部屋のドアに「カレーつくった」というメモがあったりした。ハウスへの友人の来訪があった時には、「すぐこい」という電報がきた。

家賃を稼ぐための交通費が必要になると質屋にいった。ただで貰ったヘッドホンやジャケット、何かを持って行きさえすれば千円を貸してくれた。もちろん、何の価値もないものなので、金ができたらちゃんと出しに行くという信用貸しだ。困っている人を見捨ててしまうような奴は、どこにもいなかった。

その後、通勤に不便という事でS君が引っ越す事になった。そうなるとハウスの家賃を払い続ける事は困難だ。ハウスが段々と壊され、建て売り住宅が建ち始めた頃だ。いい潮時だと思った。何もしない生活も充分味わえたし、何かを買うために仕事をする気は相変わらずなかったが、肉体労働の現場や工場や事務所、いろんな業種の店舗など、様々な労働の現場を体験しておく事も悪くはないと思うようになってきていた。

そして、僕たちはそれぞれの場所へと旅立ったのだ。
# by nakagami2007 | 2009-06-22 21:12